インドからだよ〜ん-V |
インド・サルボニ紙幣印刷工場の開所に当たって
(旧)ICPプロジェクト 丸田 太
約5年前に念願の大型受注契約に成功して発足したICPプロジェクトでしたが、去る2月12日の盛大なる開所式にて、
その任務をほぼ完遂した思いです。
現地では搬入組み付け中に火災が発生したり、度重なるインド側の事情による工程の遅れがありました。
そして厳しい生活環境でしたが、今では全機種で所定のプラス20%以上の生産性で稼動を続けるに至っています。
それは設計部門と工場部門とが一体となって、新規開発装置の完成度を高めたこと、また顧客メンバーの技量とモラール
の向上に努めた結果と言えます。
開所式
はインド中央銀行のジャラン総裁を主賓として行なわれ、○○副会長他KCT、MC○○、丸紅インド、▽▽製作
所、プリンテックの各トップの方々が招待されました。
また日本政府からカルカッタ総領事のご参加もあり、盛大なものとなりました。
この日、招待者ご一行は150キロの悪路を4台の車に分乗しカルカッタを6時前に出て宿舎には9時過ぎに到着されま
した。
11時半からの式は工場のエントランスホールで約300名の参列者で行なわれ、ジャラン・インド中央銀行総裁、
サブクールBRB社長、チャトパタイ・サルボニ工場長らのご挨拶と進み、総裁による銘板の除幕とテープカット
で締めました。
その後、○○側の招待者
は工場見学
とパーティを済ませ、他の○○側クルーと共に柳田役員持参の日本酒で乾杯、そして
コックの天野さん特性の赤飯弁当で腹ごしらえをしました。
そして2時過ぎにはカルカッタへ向けて移動し、迎えた側も多忙な一日が無事に終わってヤレヤレでした。
○○にとっては海外への紙幣印刷機械戦略上、ここサルボニ工場は実稼動中のモデル工場であり、ショールームとして重
要な役割と活用の場になったと思います。
開所式の数日前にもM国政府の調査団がサルボニを訪問された際、チャトパタイ工場長ほか各部長クラス全員の大歓迎を
受け、○○スタッフに代わって工場と機械の説明をして下さいました。
商用機需要が停滞する中で、これが将来へ向けて明るい星となってくれることが、サルボニの地を踏んだ百名を越える小
森スタッフの総意と言えます。
この開所式準備の為に丸田は2月初めに12回目の出張に出かけた。
そして日本人招待者受け入れ準備と共に顧客側スタッフと一緒に工場建設の歩みを紹介する写真展
の準備に協力した。
建設工事当初の写真とミニ工場開所式の写真は顧客スタッフ撮影の物を約20枚スキャナーで取り込み、メイン工場搬入
後のは丸田がデジカメで撮影した物を約120枚選び、何れもA4サイズにカラープリントして開所式当日、エントラン
スホールで披露することとなった。
(添付写真説明:開所式全景、ジャラン総裁のご挨拶、テープカット、○○側の招待者、工場見学、写真展)
丸太のインドは此れが最後となり、延べ滞在日数は564日だった。
この間の事に対する率直なる丸田の感想を記す前に、或るセクレタリからの便りを紹介したい。
この人は「インドからだよーんU−拝啓セクレタリ殿」当時の4人のセクレタリの一人で、既に社内結婚をしており、
出産の為に「インドからだよーんU」の後に退職していた。
5月4日に戴いたメールである。
こんにちは、ここ数日「暑い」といっても良いくらいの日々が続いておりますが、お元気でいらっしゃいますか? この度は、メール送って下さり本当ありがとうございました。 とても感激しております。
実は、密かに「丸田課長(もし役職が違っていましたらすみません。でもこの先もずっとこう呼ばせていただけたらうれしく思います。)からメールがこないかなー」なんて期待をしつつ過ごしておりました。
先日、主人が珍しく気を利かせて社内報を持ち帰って来てくれ、早速記事も読ませていただきました。
今想い出しても私などは本当に良いとこ取りで楽しかったことの多い職場でしたが、その分丸田課長のご苦労はたくさんあったと思います。
もしこのプロジェクトがこれからの小森の海外輸出マニュアルになる事を考えると大変だったことも答えを探す苦労も味わえ無かったとしたら少し損してしまうかもしれませんね。
私の現況もぜひお伝えしたいと思います。
一応、うちの息子にも大変すきなものがあり(電車、新幹線、SL))いまはその嬉しそうな顔をみたいがためにそれに奔走しています。
好きなものもどんどん変わるのでこのまま落ち着いてくれたら、ゴミも減っていいのに・・ それとわたしは最近、実家の手伝いの農業をしています。(このとき息子は、泥んこまみれで元気にじゃましてます。)
お話したいことはたくさんあったのですが(なんか愚痴をこぼしてしまったみたい)、何せ文章を考えるのと入力するのがうまくいかず変になってしまいましたが、また何かおもしろい情報がありましたらメール送って下さい紹介してくださったHPぜひみたいと思います。 |
このプロジェクトがスタートしようとした当初、採算的に厳しく、契約内容も不利な所が多く、自社外生産機械に関する技術的かつ対応上の難しさがあって、果たして成功裏に終われるかで、社内にも反対の声が多かったに聞く。
従ってこれを乗り越えて大きな仕事の達成に「男のロマン」を感じた人が居た反面、丸田としては重荷を感じていた。
此れは責任感からではなくて、「そんなに簡単ではないぞ」との戒め的ものだった。
だから当初から「成功させよう」ではなくて、「失敗しないように」であり、失敗に結びつきそうな事で影響力の大きなものから潰して行く事ばかりしていた。
逆に小さいことでもプラスになりそうな事を積み上げて行った。
それは現実を有りの侭に認める事から始まり、無理せず少しずつ進めることにもなった。
我々の置かれた環境やインド人との関係も、それを無理やり変える事は出来ない。
郷に入らば郷に従えである。
その結果、流れに乗りながら、また流れに流されながらも何とか港へたどり着いた感じがする。
大きな仕事をやり遂げた感じではなく、丸田にとっては其れまでの30年間と同じく、一つずつ目標をクリアして来ただけとの感じが強い。それは丸田の人の動かし方が、上から引き上げるのではなく、下から突ついて押し上げる遣り方だからにもよるだろう。
インド人やインドについて色々と記したが、ある意味では愚痴と陰口の連続になってしまった。
しかし批判するつもりは全く無く、丸田の目を通して有りの侭に表現したかっただけだが、やはり偉大なるインドとの印象になる。
海外に出ているインド人も多いと言うし、インド人が作るソフトも今は多いと言うが、丸田達が付き合ってきたインド人の方がインド的に思う。
そして文明に害されない、自然と共に生きるインド人の方が偉大と思う。
我々が普通と思う事が出来なかったり、期待に応えてくれないインド人は多かったが、彼等としては精一杯していたつもりだろう。
それを素直に認めて行かない限り彼等との付き合いは長く続かない。
そんなインド人ばかり見ていると、日本人でありながらインド的な者に対して腹立たしい思いをした事が何度かあったが、そんな物の見方が出来たのも彼等との付き合いがあったからだろう。
前記のメールをくれたセクレタリさんは、時々ポカがあったが誰もが憎めなかった。
そして日本に行っていた多くのインド人とイギリス人に聞く所によると彼女の評判が一番良かった。
彼女の言葉は、多くのインドの私に対する言葉にも思う。
その意味で何か共通する所を感じるのである。
インドに対して酷く嫌う人達と、インドに魅せられる人達が居るという。
丸田は左脳人間で新しい事への興味は尽きないからインドの時計では生きれない人間だが、インド人を酷く嫌う気持ちにはなれない。
そしてインドをこよなく愛する人達の気持ちは良く理解出来るような気がする。
文明社会が滅びようと、地球上に最後まで残る所はインドに違いない。
最後に、このインド・シリーズのホームページへの掲載にあたり、小学校、中学校、高校、大学と一緒だった松田君のご協力に、この場を借りて厚くお礼を申し上げます。
2000.5.22(完)