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インドからだよ〜ん-V

*** インドの写真事情 ***

芸は身を助けると言うけれど、芸と言うか技と言うか丸田のデジカメでの写真撮影は 仕事でもプライベートでも相変わらず多く、有名になるに従って公私共に撮ってくれ と頼まれる事が増え、また工場内出入り時のチェックではCISFの警備官が変わっ ても殆ど顔パスで通れるようになっていた。
元々丸田のカメラ歴は中学時に懸賞で二眼レフカメラが当たって以来だから長いに違 いないが、典型的左脳人間だけに芸術的センスで撮ることはなく、記録用の道具とし て使うに徹している。
そして左脳派らしく機能・構造・理屈を知った上での扱いだから、仕事上で製品開発 に応用したり機械の記録写真用にも活用出来た。
弘法筆を選ばずとも、選ぶとも言うが、予め光の具合(フラッシュ無しの場合の光量、 フラッシュ撮影時は距離と反射光の向き)で場所を決め、シャッター半押しで距離の ロックをしたら、構図とチャンスで決断してシャッターを押せば、カメラの性能なり に誰だって見栄えの良い写真が撮れるものだ。
明るい場所で撮るサービス判ならレンズ付きフィルムでもニコンの一眼レフでも構図 とシャッターチャンス次第で一般には区別が付けられない。 (但しカメラマニアが見れば一目でカメラのランクが判る)

1997年のゴールデンウイークから顧客の検査官とトレニーが日本へ行き始めた が、其の前から一緒だったEAPL(我々が雇った機械屋電気屋集団)の仲間が皆し てコンパクトカメラを買って異常なまでに写真への関心を示すので、インドの写真事 情は相当日本と違うと感じていた。
そしてソ連邦時代のカメラ事情を思い出した。
ソ連がアメリカと宇宙の覇権を争っていた頃、晴海国際展示場でソ連展を見る機会が あった。
その時に展示されていた教科書とカメラについて生々しい印象が今も焼き付いている。
茶けたザラ紙に擦れたインキで、所々に色も入った教科書は、形は本になっているが、 化粧断裁の位置が悪いものだから所々で袋になって中が読めない代物だった。
カメラときては明るさF8の小さいレンズしか付いていない。
当時の日本ではF2位まであったから、4段階(光量で16倍)の違いがあった。
ロケットや軍事に人材と金とが配分され民需レベルの貧困さはインドも同じだった。

顧客トレニーは1日150ドルの手当てがインドから支給され、会社に約半分を滞在 実費として支払った。
4週間の滞在だから、15万円以上は残る。
彼等にとってはインドでの半年分の給与相当だ。
中には殆ど外出もせずに残す者も居たが、大概は1万円余りのズーム付きコンパクト カメラとCDコンポを買って来た。
カメラの性能は前記の通りだが、スピーカの性能がインドは極端に酷く、英語に堪能 な営業担当の何れもがインドのテレビでは聞き取れないと言っていた。
低音領域が割れてしまって英語が駄目な丸田でも音の駄目さは疑い様もない。
日本のカメラを手にしたトレニーは早速パチパチと撮り、翌日仕上げのスピーディさ にもカルチャーショックを受けている。
それも其の筈、サルボニで現像に出すとカルカッタ往復となって最低1週間はかかっ てしまう。
日本では彼等も金持ちだから3本5本と撮り捲くるが次第に写真の出来具合がカメラ の性能と関係ないと判るのか、2週間もすると撮らなくなってしまう。
其れらを見越している訳ではないが、丸田は彼等の歓迎セレモニーからトレーニング 風景、観光や買い物でのスナップ、そしてトレーニングの卒業セレモニーまで、各自 20枚位は写してサービス判アルバムを個人別に作って遣る。
それを予告なしに成田に見送って渡してやった。
前日迄の諸々のスナップ写真を土産として持ち帰れる。
其れを仲間や家族に声を大にして説明出来る。
日本訪問自体彼等にとっては一生に一度経験出来るかどうかだけれど、その様子を写 真として固定された喜びはインド人ならではかもしれない。
丸田のインド滞在中、このお返しとして色々な形で還元されたのだった。

最初の1ライン目を入れたミニ工場時代、カメラは日本でインド人を撮り続けたペン タックスの3倍ズームのコンパクトカメラを其のまま使っていた。
しかし此れは正に記録用でしかなく、即日仕上げの無いインドでは機動性に問題があ った。
そこでメイン工場の本格的搬入が始まった1998年10月末からのインドではデジ タル・カメラとモバイル・プリンターとを持参した。
大袈裟に言えば此れで仕事が変わった。
最初の威力は輸送時梱包事故での求償手続きで発揮された。
輸送保険は契約上は先方の扱いだから、お役所的に言えば会社は関係ない。
しかし認定が遅れれば当然保険金支払いも遅れて我社への入金も遅れる。
そこで手続き書にデジカメで破損部分とインボイス・ナンバー等が入った梱包標記を 撮って即プリントして添付すると、其処はお役所だけに全てがスンナリとスムーズに 処理されたのだった。
写真の利用が少ないインドの場合は写真の価値は日本との物価の差を遥かに越えたも のとなっている。

前回記したように工場内では事故写真だけでなく、開梱前の荷物が何処にあるかのメ モ代わり、工程の進捗(主に遅れ)を記録したり、扱いや運営の悪さを記録しておき 何かの時に使おうと、撮影日が自動的に記録される機能はデジカメの活用範囲を広く していた。
勿論テストでの部品の破損や印刷不良の記録も接写アタッチメントによって実物大以 上にプリントが可能だ。
何せ撮った写真はプリントしなければ費用は一切掛からない。
記録するスマートメディアはパソコンにデータを移せば何度でも使えるし、単3電池 はバッテリー充電で済む。

所で一番効果的だったのは工場内でのスナップ写真だったろう。
工場長初めインドでは写真に撮られて怒る者は居ない。
機械稼動開始セレモニーとしてのココナツ割り(言わば入魂祭)では誰もが写真に撮 られようとするし、仕事中でもアチコチで撮って呉れとせがまれる。
一旦始めると仕事を放り出してパニックになるし、誰かを撮ると他も撮らなけりゃな らないから、時と場所とは気を使う。
それでも今年の2月まで、1年半足らずの間に人物中心の写真だけで500枚以上は 撮ったろう。

撮った以上はプリントしてプレゼントするが、インド人は肌が黒いだけに最初は失敗 も多かった。
特に夜中のパーティなどフラッシュしても殆ど何も写らない。
此れは笑って誤魔化しが出来ない。
それにプリントでは墨インキの使用量が凄くて日本から持参したインキは直ぐに無く なるし、持参して貰った墨インキも足りなくなるし、すっかり見通しを誤ってしまった。
それでもデジカメ・システムは良く出来ているもので、予め撮影時に露光調整を3段 まで出来る事が判り、しかも次回の出張時にはフォト・ソフト持参で明るさやコント ラストの修正が出来るようになった。
このソフトの威力は大きい。
時にはインド人も黄色人種並の肌でプリント出来るようになった。
テイク&テイクの国だけに、工場長も憎っくき副工場長も、CISFの警備兵だっ て、写真を貰って「サンキュー」は皆言ってくる。
それで便宜供与の期待はしてならないが、コミュニケーションが良くなった事は間違 いない。
個人的関係は良くしておいて、仕事上は相手がお客であっても遠慮はしない、それを 丸田の方針とした。

写真に関係した事を幾つか紹介しよう。
紙幣印刷工場だから、工場の襲撃で利用される畏れのある写真は問題となろう。
其れは日本でも同じで、印刷局だけでなく会社内での撮影は何処でも無闇に許される 分けではない。
インドは旧社会主義国だけに空港内で警告を受けた日本人観光客は多いと言う。
警告だけで済まずにフィルムの抜き取りを命じられる事さえある。
逆らえば即、留置場行きである。
丸田とて最初から写真全面OKだった分けではないし、最後まで許可書持参を通して いた。

プロジェクトが始まった頃は工場内立入り時に荷物チェックも無かったし、工場内職 員は写して貰いたい方だから、工場内で写真を撮っても誰も文句は言わなかった。
制服のCISF(モンゴル系の人) にだけは見つかると即注意を受けてい た。
工場内に限らず、キャンパス内も同じだったし、サルボニの街でも警官に撮影を 注意された者も居た。
工場内で紙幣印刷が始まると、目的としては紙幣の盗難防止だろうが、工場の出入り 時に荷物検査が始まり、更に西インドの工場で紙幣盗難の事件があってからはボディ チェックも始まった。
工場内には10名程の女子職員も居るから、其の為の 女性CISF も出入り口に立つようになり、衝立で囲われた女子用のコーナも設けられた。
工場に入るに当たり、財布とタバコは一切駄目で、事務所の引き出しに預けなければ ならないが、タバコは少し減っていることがあると言うから、ゲストハウスの菓子と 同じくインドに共通した自然現象なのだろう。
職員に対しては書類の持ち込みが許される程度で、原則的に一切持ち込み禁止、そし て出る時は靴の中まで調べられる。
我々には簡単なボディチェックだけで、荷物も中を見せれば通して呉れた。
当然丸田は許可書を見せてカメラ持ち込みをしていたが、他の人が持ち込む場合には 丸田宛の許可書でも良く、更に許可書が無いとき、飴を少々渡したら通して呉れた事 もあったと言うから、其の程度のものだった。

撮影禁止が工場襲撃に対するものとすれば、内部への持ち込みは其れほど厳重でなく とも良いのかもしれない。
逆に工場外観の写真は厳しい事になるが、工場真向かいの3階建てアドミニ・ハウス 屋上から撮った写真を1999年の年賀状用にボストカードでインドから出そうとし た所、EAPLのヤショダールは「此れはマズイ。
「SALBONI」の字を消した方が良い」と言ってきた。
工場の一部が写っていただけだったが、元社会主義国のかつての運用から見て「ヤバ イ」と思ったのだろう。
それでも丸田は何とかより高い所から、しかも工場全体をデジカメで撮りたいと挑戦 を考えていた。
そして南西の端から周囲を照らす照明タワーからの撮影を決断した。
タワーの高さは15メートル程度だが、途中に2ケ所の踊り場があるとは言えオープ ンな梯子を登るしかないから、日本では安全委員会から厳重注意処分となる行為だ。
現役の安全委員として丸田にとっては一大決心をしての決行だった。
そしてタワー頂上の囲いは1.5メートル角位だったが、上がって驚いた。
風で揺らぐし位置を変えるだけで揺らぐのだ。
良い写真を撮りたい一心だったから其れ程の怖さは無かったが、カメラ振れが心配で、 息を殺して揺れの周期を考えながらの撮影だった。
広角アタッチメントを取り付けて全周パノラマを撮った結果、皆の評判は上々だった が、此れで満足していた訳ではなかった。
高さは同程度だがCISFの消防用の望楼があるではないか。
南東からの向きだから趣きも違うだろう。
モハンカさんに頼めば上がらせて貰えるかもしれない。
その機会を伺っていたが1999年2月のある日、大西さんと吉島参与が見えた時、 EAPLのヤショダールをアテンドさせて CISF に行った。
モハンカACは出勤前だったが、先ずは詰めていたメンバーの写真を何枚か撮り、 ヤショダールに頼ませたら、意外にもスンナリと登らせてくれた。
しかし写真としては期待外れであった。
もうこうなったら給水タワーしかない。
管轄から言うとメンテナンス部のヤダブ部長になるだろう。
前にヤダブさんの依頼で工場廃棄物管理のテーマで十数枚のデジカメ写真を撮ってあ げたことがあるから、多分許可して呉れるに違いないと、検収打ち合わせの際に頼ん でみた。
すると早速電話して当たってくれ、鍵はポンプ室の管理人が持っているから何時でも 良いとのこと。
数日後の快晴の日、 念願の写真 が撮れた。
この写真はポストカードからA2サイズ相当まで何種類もプリントしたが、渡すセキ ュリティには気を使った。
そしてバンガロール本社に居る先方の社長や取り巻きにも渡るようにしたが、何のク レームも無かった。
それ所かお礼の言葉と、工場の他の部分の写真オーダーが来た。
しかし、今年2月の開所式の時、日付を入れて開所式記念に配布したらと工場長に打 診すると、流石に報道機関も多く来ていただけに、難色を示し、日本からの限られた 人達だけは黙認するとの意思表示だった。

日本に行った人達は大概はカメラを買って来たが、インドでは現像などで時間が掛か るからとは別に、サービス判でも20円相当の費用が掛かるから、日本と変わらな い。
つまり物価全体としては1/20位だけれど其の割には写真代が高いから、普段 撮ることは出来ない。
丸田としては心外ではあるが、証明写真用に撮ってくれとか、パスポートが必要だか ら撮ってくれなどと頼まれることもあった。
この当たりは或る程度は割り切ってやるしかない。
カラグプルの街へ買物へ行った際など、馴染みの店の娘を撮って遣ったりするとコー ラをサービスして呉れるから、テイク&ギブの所も無いではない。
ただ、ミドナプルの雑貨屋で店の者の写真を撮ったら帰りにサインを求められた。
「写真を撮ったからサインしろ」とのことだけれど、此れは未だに理由が判らない。
彼らが肖像権なるものを主張しようと言う事か。

カメラ自体が少ないだけに街中でインド人が写真を撮るのを見ることは全く無い。
従って何処でも写真撮影が自由かと言うと、そうとも限らない。
カルカッタで言えば殆ど唯一の観光地と言えるビクトリア記念館は内部写真禁止だが、 理由としては絵画に対するストロボ発光禁止だろう。
しかし多くの職員が中に居て、絵画だけでなく写真は駄目だった。
館内収集物の多さと学術価値として有名なカルカッタ博物館の場合も館内禁止で、以前 は15円ほど払えば良かったらしいが、今は全面禁止になっている。
デリーやアーグラ等の観光地ではネール記念館など殆どフリーだった。
ただ、タージマハールの皇女の棺の部屋だけは殆ど暗闇の中だったが、撮影禁止とされ ていた。
威厳の維持としか思えなかったが、持ち込みは出来たので、ノーフラッシュでの 隠し撮りは出来た。
それと面白いと言っては失礼だが、荷物検査があってデジカメ・バッテリーの充電器 を一時預かりとされた。
世界遺産が爆破されては困るとの趣旨らしい。
インドの観光地ではカメラはOKだがビデオ撮影は有料が相場らしい。
上記のタージマハールもアーグラ・フォートもやはり世界遺産登録されているボンベ イから程近いエレファント洞窟もそうだったし、カルカッタ動物園でもチェックされた。
「深い河」によると、ベナレス(VARANASI)の沐浴場(ガート)は撮影禁止 なのだとか。
何故その写真が此処にあるのか不思議だか、インターネットから取り込んだものである。

(編集:2000年5月20日)

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