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インドからだよ〜ん-V

*** カメラ盗難事件 ***

ゲストハウスと聞くと「接客所」と言った お客の持て成しの為の設備の様なイメー ジを受けるが、実際は単なる宿舎でしかない。
寝泊まりと食事が出来るだけだが、芝生や花壇が奇麗に整備されている点で サルボニ ・キャンパス内では工場長の宿舎と此所だけだから、其の意味では最高の持て成しを 受けている事になる。
ゲストハウスの維持の為に働いているのは、主任(スーパーバイザー)と呼ばれてい るタポンとアムレッシュに、掃除人が5名、設備の維持担当が2名、インド食コック が1名、それに門番が3名だ。
彼らは工場が契約している会社に所属している。
主任の2人は午後2時の前と後とで交代し、門番は一人8時間ずつの交代となっている。
門番は真夜中でも玄関で張り番をしているが、武装している訳でもなく侵入者に対し ての効果は疑問だ。
実際、或る日の昼食後に廊下で見慣れない者から声を掛けられ、見え見えのガラス玉 を土産にと売りつけて来た事があった。
その者には「直ぐに出て行け」と追い払い、門番には「何故彼を中へ入れたか」と叱 ったが、何がしかの賄賂を門番に遣って入ってきたか、知り合いの中か、何れにして も其の程度のものと言う事。
結局それでも何かの事件が起きた時に、「門番も置いていないのか」とインドの 警察は取り合って呉れないのだとか。
9億人の民の仕事作りの慣習と思えば良い。
「富める者は施しをするべし」が この国の慣習であり、財力がある者の周りに親戚 一同が集まるし、使用人を置く事になる。
一般的に使用人は6人ワンセットで、門番、運転手、コック、ウエーター、掃除人、 洗濯女、と言うところか。
全て一人1日50ルピー以下で、月2万円位と丸紅の人が言っていた。

昼間に我々が仕事で留守にする間、彼らは合鍵で部屋に入り、毎日の掃除と週2回の シーツ交換などをして呉れる。
所が此れも困ったもので、食べかけの菓子などを置いておくと、毎日少しずつ確実に 減って来る。
ラジオや時計なども弄り回しているらしく、真夜中に目覚しが鳴り出したとか、折角 合わせておいた短波の周波数が変わっているなど、色々な事が起こる。

また、工場のお偉方がゲストハウスに来ることは殆ど無いのだけれど、やれ節水だ、 やれ節電だ、やれ犬を飼っちゃいかん、などと此方の様子が筒抜けになっている。
これも主任達が情報元となっているらしく、彼らの点数稼ぎの一つなのだろう。
こんな気の許せない使用人達だが、時には飴をしゃぶらせたり、日本からの土産だと 安いボールペンの1本でも上げておくと、結構進んで働いて呉れる。
例えば自転車の空気を入れようとすると、空気ポンプを取ってパンパンに入れて呉れ るし、時々自転車の掃除もして呉れる。
そして何かの荷物を部屋まで運ぼうとすると進んで手伝いもして呉れる。
此処インドはイギリスの統治下にあった所、人に仕える事に慣れている国民が多いの に、我々日本人は仕えさせる事に慣れていないから、彼等とは中々巧く付き合えない。
この国での平等とは何なのだろう。

( 1998.3.4)

1998年11月の或る日、その事件は発生した。
H君の部屋からカメラが無くなった。
彼等の遣り方には一つのパターンがある。
先ず欲しい物があると最初は場所を動かすだけとする。
カーテンの裏など持ち主が探せば見つかる場所にである。
持ち主が元の場所に戻してしまえばカッパライは諦めるしかない。
持ち主が騒ぎ出せば元の場所に戻しておく。
そして何日か其の侭だと持ち主に気づかれないとして持ち出すことになる。
今回は無くなったのが判ってから騒いだが、戻って来なかった。
H君の話しによると何時から無くなったかは判らないと言うから、犯人は暫らく部屋 の中で移動して様子を見た後、騒ぎが無いから持ち出してしまったのだろう。
一旦騒ぎになってから持ち込むのは難しいから戻しはしなかったのだろう。

今までも無くなったものはあったが、工場に正式に届けたのは此れが最初だった。
2〜3日して10時頃、捜査するから立ち会って欲しいと連絡があってゲストハウス へ戻った。
インド人ゲストの食事をする部屋に工場総務でセキュリティ担当サッカール課長がゲ ストハウスの使用人達を集めていた。
其々尋問を始めたがヒンズーで話しているのかベンガリで話しているのか、内容は全 く判らない。
そのうち掃除人の一人(ピンツー)を強い調子で怒鳴り出し、左の耳たぶを摘んで 床にひれ伏させたり、ビンタを食らわせたり始めた。」
「いい加減に白状しろ!」との感じに見える。
本人は強く否定している。
後から岸川参事に聞いた所では、此れがインド流の解決方法らしく、誰かを犯人 に仕立てて殴っておくと、暫らくは同じ事件が起きないのだと言う。
それにしても人権蹂躙な方法だ。
我々に対して「盗難騒ぎなど起こすな」とのプレッシャーにも感じた。
役人の遣りそうな事だ。
そうこうしている間に目の玉が鋭く大きい30過ぎに見える人が入ってきて、使用人 の一人一人と話し出した。
この人こそ後で判ったのだが、CISFサルボニ・サイト のトップ、モハンカAC(アシスタント・コマンダー)だった。
穏やかな声だが早口で一通り聞き取りをすると、その場はお開きとなった。

其の日の午後4時前、事務所にモハンカACが一人で現れ、私を影の方に連れて言っ て「無くなったと言うカメラは此れか」とハンカチに包んだカメラを見せた。
H君から聞いていた特徴から間違え無かったが、「多分其れと思う」と答えたら「直 ぐにH君を呼んでくれ」となり、電話で呼び出し確認して貰った。
間違いなかった。
6時間足らずで見つけ出すとは、流石にプロだと感じた。
情報によると使用人の部屋(工場部長職社宅等に付随している)をモハンカACは 片っ端から調べ上げたらしい。
使用人は家宅捜索されるなど考えても居なかった為に直ぐに盗品が出てきたのだった。
CISFは訳すと中央産業警備軍となるが、中身は警備と消防とを担当している。
警察権は判るが、家宅捜索は日本だと裁判所から捜査礼状を取らねば出来ない事。
それを其所では簡単に遣ってしまっている。
この捜索によって、添付した写真の通り、其々の使用人の部屋から色々と出てきた。
捨てた物も幾つかあるが、今までの各自の泣き寝入りの多さに、認識を変えねばなら ないと感じた。
因みに犯人は電気設備の担当で、コックの天野さんによると、其れまでも不審な 行動があったのだとか。
天野さんが昼食後に部屋で休んでいたらノックもしないで入ってきて、其れを咎めた ら慌てて一旦出て行って、工具持参でもう一度入って来たとか。
笑っちゃうよーな話しだ。
犯人が解雇された事は間違いないが如何様な仕置きがあったかは判らない。
運転手のモンツーによると、頭を虎刈りにされて晒し者(首ではない)になるとのこ とだが、誰も其れを確認していない。

先ずは工場長にレターした。

○○GM殿

ゲストハウス内のセキュリティについて
先週末にゲストハウス内にて我々のメンバーの一人がカメラ(1000ルピー相当) を無くしました。
そこで貴社のセキュリティ担当が我々に対して再発防止の為に次の注意を与えました。

  1. 工場が手配した掃除人等の行動は工場が責任を持って悪さをしないようにする が、貴社側も他の者を部屋に立ち入れさせないこと。
  2. 利用者は部屋内の整理整頓に心掛けて工場手配の掃除人などが誘惑に駆られるよ うにしておかないこと。
  3. 運転手など外部の者を食堂に入れたりビール等を与えないこと。 これらに対して我々は本日朝に全員に対してこの内容を口頭で指示した上、同じ内容 の書類をゲストハウスの食堂に掲示しました。

ただ、今回の紛失事件の前にも次の様な事例が事実としてあることを我々は貴方に 知って欲しいし、ゲストハウスとしてそれらは異常な事と我々は考えますので、工場 としても然るべき手段を講じて戴きたい。

  1. 高価な物を積極的に盗む行為は今の所はありません。
    しかし、次に示す微細な悪さは度々発生しています。
  2. 例えば日本の周波数に合わせたラジオが毎日インドの周波数に変えられていま す。
    再度日本の周波数に合わせるのは難しいので、我々にとっては大変な迷惑です。
  3. 夜中に突然目覚まし時計が鳴り響いたことがあります。
    掃除人が触れた以外に誰が触れられるでしょうか。
  4. 部屋内に缶に入れておいた菓子が毎日少しずつ無くなります。
    半分位残しておいた菓子が、その後に私は食べないのに、数日後には数個だけしか残 っていませんでした。
  5. 部屋内の或る物の位置がカーテンの裏側に移っていました。
    此れは何を意味するのでしょうか。
    その侭にしておいたら、数日後にその物は消えていたことでしょう。
  6. 個人で買った自転車の鍵を後日日本から来る人の為にメモと共に部屋に残してお いたら鍵が紛失していました。
    後日私が戻って調べたら自転車は常時誰かが使っていたらしく、鍵は食堂のアシスタ ントが持っていました。
    常時私の部屋に出入り出来る者が無断で持ち出したに違いありません。
  7. 会社の費用で買った自転車5台のうち、一台が紛失した侭です。
    日本人が誰でも使える様に普段鍵は掛けていませんでしたが、日本人全員が居なくな った間に自転車は誰かが鍵を掛けてしまいました。
    使用人は誰も鍵の存在知らないと言うので、鍵を壊して使えるように始めたら、何処 からか鍵が二つ戻って来ました。
  8. 食堂のテーブル上に置き忘れたサングラスが無くなってしまったので騒ぎたてた ら、数日後になって元の場所に戻っていました。
  9. 食堂横の倉庫内に保管してあった固形石鹸などが幾つも急激に減ったので騒ぎ立 てたら、数日後にその殆どが戻っていました。
  10. 食堂のロッカーに薬類を置いてありますが、バンドエイドが一度に5枚、10 枚と無くなります。
    金額は僅かですが、日本人が使いたい時に無いのは困ります。
  11. ゲストハウス内の廊下で、物売りから土産用に宝石は要らないかと現物を見せ て勧められました。
    ガードマンは何故彼を入れたのでしょうか。

上記の事は我々が知り得ただけの内容ですから、実際には日常的にもっと多くの悪さ が為されているに違いありません。
貴社セキュリティ担当の言葉に従って我々は注意をしますが、それで上記の悪さはな くなるのでしょうか。
ゲストハウスの利用者にこの種の注意義務を負わせるだけでなく、使用人に対する監 督を更に厳重にするよう希望します。

 以上

この事件以来、使用人達との蜜月は無くなった。
しかし悪戯は無くならなかった。
半年間皆で我慢したが、結局合鍵を彼等から取り上げ、部屋の掃除は昼休みに住人立合 いで遣らせる事とし、シーツの交換はセルフサービス、ゴミ処理はゴミ箱を朝に部屋 の外に出しておくなどで解決した。
合鍵の管理はコックの天野さんの好意に甘えた。

この事件以来、モハンカACとは岸川参事と共に懇意に努めた。
警察とは仲良くしておいた方が良いとの、岸川参事の30年のインドビジネスの経験 による。
1月26日の建国記念日、8月15日の独立記念日、それにCISF創立記念日と、 其々CISF前グラウンドにて工場長を主賓としたセレモニーがあり、我々も招待を 受けた。
彼からパソコンやプリンターの操作について問われて社宅を訪問し、ベジタリアン家庭 料理を何度か御馳走になった。
船田課長の奥さんがサルボニに見えた時にも4人で招待を受けたし、彼の息子が3歳 になった時のパーティでも招待を受けた。
また我々も12月に日本人全員帰国前のパーティを工場の課長以上を招待した時にモ ハンカACも呼んだりした。

初めは少し煩わしい付き合いだったが、直ぐに彼の人柄の異常(?)さ、つまり其れ までのインド人には無い、インド人に対する偏見をバッサリと切り捨てざるを得ない 付き合いとなった。
12月のパーティでは彼だけ花束持参で来た。
建国記念日など招待に応じると、必ず彼の方から足を運んできて「良く来てくれまし た」と握手を求めてきた。
そしてセレモニー中、スナップ写真を撮ると、彼一人だけはカメラ目線をしてくれた。
自宅での食事では自分で我々の皿に色々と盛ってくれ、食べる傍からどんどんと足し て呉れる。
岸川参事から「インドでは口を忙しく動かしつつ飲み込まないことだよ」と極意を教 わるまで、何とも表現が難しい野菜料理を無理して腹一杯食べることとなってしまった。
食事の後で彼は玄関で見送るだけでなく、庭先で季節の花を一輪ずつ摘んで「どうぞ」 と我々に差し出して呉れる。
そしてゲストハウスが見えるロータリーまで彼は送って呉れるのである。

インドも1回行くと2ケ月以上の滞在になるから髪の毛も伸びてしまい見た目が悪 い。
仕事中は帽子で何とか隠しているが、モハンカACに招待された時など隠し様も ない。
ある日の招待で丸田の髪を見ながら、「明日(日曜日)ゲストハウスに居るの ならCISFの理容師を遣るから」と言ってくれた。
キャンパス内にも床屋があって1回10ルピー(30円)でカットして呉れるが、つ い億劫になっていた。
其処で営業している理容師は特に資格があるわけではなく、カルカッタのホテルなど のは国家試験をパスしており、1回100ルピー位だと言う。
CISFの理容師も資格者なのだとか。
翌日約束の時刻通り理容師が遣ってきて洗面所に椅子を持ちこんでカットして貰った。
お金は取らないから、日本の菓子を持たせた。
そして天野コックも飛び入りで快くカットして呉れた。

モハンカACは工場上層部と比べても、明らかに人間的違いがあった。
モハンカACは日本で言う公務員上級試験で採用された所謂キャリア組だった。
警察のキャリアにも3ランクあって、一番上は本庁中心、2番目は警察、3番目は産 業軍とのことで、モハンカACはキャリアとしては下の方なのだろうが、良い意味で のエリート意識を感じた。
自分に自信があるから、我々に対しても心から客人として接する事が出来るのだろう。
尊大なる乞食達と同じ国民と思えない程だ。

モハンカACの存在は色々な事で大きかった。
衛星利用のインマルサットに関したスパイ容疑の件は前に記した。
丸田が正式許可を得て工場内にカメラを持ち込んでいることを知ると、「その許可書 のコピーを作って持って来なさい。
工場の警備隊長室に張り出しておくから」とまで言ってくれた。
前回記した度重なる工場内事故についてもモハンカACは全て知っているとのこと。
制服だけでなく、私服も工場内に入れているのだと言う。
実際、工場長への事故や鼠被害や雨漏りに対する苦情レターに、コピー・トゥー・モ ハンカACとしたら、「此所は消してくれ」と言われた。
工場長も我々には強気でも警察には弱いらしい。

(1999年)5月1日のメイディはインドでもメイディであり、今年は丁度土曜日 だったので日曜日と連休になった。
それで前日から冷房付きの大型バスで全員カルカッタの高級ホテルに二泊しようと計 画した。
しかし夕方5時には出発の予定が、迎えのバスが来たのは7時半過ぎで、途中でかな りの渋滞があった由。
やれやれと8時近くになって警備のゲートを出ようとしたらバリケードを開けて呉れ ない。
書類が無いからと言っていたようだが、警備兵が上司に電話連絡している様子から、 相手はモハンカACらしいので電話を代わり、「モハンカさん丸田です。休暇でカル カッタへ行きたいので許可して欲しい」と言ったのだけれど、何か事件発生らしく、 其れ以上はプアー・イングリッシュの丸田には判らず、翌日帰国のボスに代わって聞 いて貰った。
結局、カルカッタへ行く途中で人身事故があり住民が車に危害を加える畏れもあ るので気を付けて行くようにとの事で通して呉れた。
実際中間点近くの橋で渋滞があり、1時間以上余分に懸かって、ホテル着は夜中の2 時半になった。

1999年7月初め、イギリス人の一人がビザ切れになると突然騒ぎ出した。
ビザの残り日数は入国時に本人が見ているものであり、切れる間際になって騒ぐのは、 其れを口実にして本人がインドから離れたいのだろうと勘ぐるしかないが、会社とし て滞在が必要な人間だったから何とか手続きをしなければならない。
2年程前にも宇野製作所の北野部長(ビートたけしの長兄)がビザ延長(滞在が予定 外に延びてしまった)が必要となり、カルカッタで役所を3ケ所回って何とか取れた。
今回もまたカルカッタまで行かねばならないかとウンザリの岸川参事だったが、ダメ モトでモハンカACに相談した。
するとモハンカACは隣街のミドナプル市の役所に同行して口添えして呉れた。
岸川参事の話しによると、その場の担当官は嫌味たっぷり(岸川参事はヒンズーでの 話しが判る)と、「翌日に本人と一緒にもう一度来なさい」と言うだけだったが、翌 日行って岸川参事はビックリだった。
何とイギリス人パスポートには新しいビザ印が押されていたのだった。
30年間のインド経験の岸川参事も「ビザ延長が此れほどスンナリ出来た事は無かった」とか。

この年の雨期は長くて雨の量も多かった。
9月末、丸田の帰国に際してカルカッタまで予定通り行けるか心配な面もあった。
と言うのも途中の道路が雨期で穴ボコだらけとなり、トラック事故も多い上に冠水も あり、普段なら4時間の所が15時間も掛かった例もあった。
たまたま帰国前日にモハンカACが事務所に来た所で、丸田が帰国すると言ったら、 「それは絶対に列車が良い」とモハンカACはアドバイスして呉れた。
「列車は荷物があると乗り込みも中での移動も難しいから」と言うと、「じゃぁ私の 部下を途中まで付けるから」と親切に言ってくれた。
翌朝、島崎顧問と私は特急プルリアへ乗るべくモハンカAC宅でヤダブと言う若い副 官らしい人と一緒にスモウに乗りサルボニ駅へ向かった。
憎い事にモハンカACは私に妻への土産として密漬けの瓶詰めを持たせてくれた。
サルボニ駅での特急停車は1分足らずなので、低いホームから乗るだけでも忙しく、 しかも荷物は誰かが下から渡して列車の中から引き上げないと載せられない。
今回はヤダブさんが素早く乗りこんで運び入れてくれたので大助かりだった。
そしてヤダブさんは列車が走り出したのに降りようとせず、荷物をどんどん中へ入れ ると阿弥陀に乗せて「ヤレヤレ此れで良いか?」との素振りを見せ、隣のシートに座 り込んでしまった。
そして次の駅のミドナプルで降りて引き返して行った。
帰国してから聞いた事だったが、丸田と島崎顧問を乗せてカルカッタへ向かう予定の 車がサルボニに着いたのは、其の日の午後2時だったとか。
丸田達がカルカッタに着いたのは午前11時だったし、島崎顧問(ヘビースモーカ) のAI便は午後7時半発だったから、モハンカACの言葉が無かったら帰国は何日か 遅れていたのだった。
モハンカさん!有難う!

そのモハンカACは2年余りのサルボニ・サイト勤務をつい先日交代し、アッサムに 行ってしまった。
丸田のインド・プロジェクトとの別離と共にサルボニを後にしてしまった。
離任に際し岸川参事に「丸田さん、船田課長と一緒にアッサムに一度来て下 さい」との言葉を残して行った。
丸田にとって モハンカAC はインド人で唯一友人として末永く付き合いたい人だった。
アッサムは昔は首狩族で有名だった所で、今でもテロが度々起こるのだとか。
そんな所には近づきたくないが、若しプアー・イングリッシュを克服出来たなら、 モハンカさんとはまた会ってみたい。

(編集:2000年5月19日)

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