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インドからだよ〜ん-V

*** 工場火災そして事故の数々 ***

1998年7月10日のこと。
印刷機械など35台を始め前工程機械、後工程機械、関連機械などが、約15000 坪の工場に搬入が始まった中で火災は発生した。
丸田はこの時たまたま日本での勤務だった。
日本に居る誰もが火災と聞いても、未だコンクリート打ち放し状態で燃える物も無い ではないかと、ボヤ程度に考えていた。
所が現地では何人もの犠牲者が出たに違いないと誰もが考えた程の炎と煙が渦巻いた のだと言う。
火は東側通路の一角で発生、炎は直ぐに南側通路に回り込み、200メートル程の南 側通路を1分足らずで一気に駆け抜けたと言う。
当時工場には19名の日本人と一人のイギリス人が搬入・開梱・設置のため、4ケ所 に分かれて作業に就いていた。
一番焦ったのが南東角のオフセット印刷機室の4名ほどだった。
火事に騒ぐ物音が始まった時点で既に出入り口の南側通路に炎が回っていて逃げ場を 失っていた。
照明も消えた暗闇の中、奥の東側通路(大きな引き戸)に皆が向かったが此こは倉庫 からの通り道でロック状態だった。
インド人作業者が多く居て誰かがガラスを破って逃げ道を作った。
其処を我先にとインド人達がガラス窓を潜ろうとする所をラジャニカント副課長が制 して、日本人を先に逃がして呉れたのだと言う。
ラ課長は1年前に前記したD課長と一緒に日本に二度目のトレーニングに行った際、丸 田が一緒に花火や祭り見物に案内した者だ。
丸田とはずっと懇意にしていたが、後日この時の話を信瀬さんから聞いて嬉しかった。
信瀬さんは当時ラ課長の名前は知らなかったが、恩人の顔をずっと覚えていて丸田に 「あの人」と教えてくれたのだった。

火元から一番遠かった南西角のナンバー印刷機室にも3名ほどが作業中だったが、或 る意味では一番怖さを感じたグループだったろう。
騒ぎで南側通路に出たTさんだったが、炎が既に東側から渦を巻いて迫っていたと言う。
それを見て気ばかりが先走り、足が付いて行かない。
所謂腰が抜けた状態で前屈みに両手ばったりの頭上を煙の渦が追い越して行ったと言う。
表に開けた西通路までの十数メートルが何と遠く感じたことか。

混乱の中、鈴木課長と相原参事が中心となり間も無く全員の無事が確認された。
二人のインド人が煙に巻かれて入院したと言う。
火災の原因は配管工事に使っていた溶接用のアセチレン・ガスが少しずつ天井に貯ま り、点火時か漏電かで出火したらしい。
天井には消音用の樹脂繊維塗装(多分セルロイド繊維の様な可燃繊維)が為されてい た為に、猛烈な煙が渦巻いたのだった。

火災は通路だけだったので機械類に対する直接被害は無かった。
しかし煤煙で酷く機械が汚れてしまった。
そして一番の問題は消火の水とその後の冷房機の運転停止での結露だった。
季節的にも雨期の真っ最中で湿度85%以上が続いていた。
従って床は水は湿っていて所々が濡れた状態、機械は汗を掻いた侭でアチコチで錆び が発生した。
配電盤内の漏電も心配だから徹底した絶縁テストまでは機械も回せず、保守は全 て手回しで為された。
結局数日後には最小限の保守要員を残して主力は引き揚げた。
日本だと建設中の工場はゼネコンの責任で安全管理が厳しく、完成まで機械搬入は有 り得ないが、此こでは強い顧客の要請により、また雨期の最中に機械梱包を野晒しに は出来ないと搬入を始めたのだった。
しかし出張者の安全確保が出来ない侭で続ける事は出来ないので、顧客側へ非常口の 確保や非常灯の設置を求め、我々自身も非常用照明としてペンライトを支給するなど 一応の対策が出来て再開されたのは3ケ月後となった。

1999年3月15日、ナンバー印刷機室奥の壁際のテーブル上に砕けたレンガが一 つ転がっていた。
此の場所は普段小さいナンバー字輪の保守清掃をしている所である。
吊り天井のずっと上で、配管を通す為に壁にダクト穴を作って塞いだ レンガが落ちて来た のだった。
たまたま日曜日だったから誰も怪我は無かったが、作業中だったら位置的に頭への直 撃もあったもしれない。

1999年3月17日、その時点で我々が未だ使っていない場所だったが、西側通路 の一部で 吊り天井が10メートル以上に渡って落ちて しまった。
本来ならば先方の管理上のことに口出しは禁物だけれど、かつて火災発生で危ない思 いをした前例からして安全上の事には黙っていられない。
また法的には既に先方の所有となっているとしても、機械に何かがあっては我々が実 際上無償で修理しなければならないから、此れも黙ってはいられないこと。
事故の度に写真を添付し、日本人作業者の安全確保を理由に事故原因の情報公開と対 策の明示を工場長宛レターしたが、毎回無視された。
この種の事はインドでは当たり前のこと、また工事は下請けの責任だから関係ないの が彼等の論理らしい。

或る日、顧客オペレータの一人が機械の角ばった所に頭を打って血を出し病院に運ば れた。
幸い大した怪我ではなかったが、その者は前にも配管ダクトを塞いだチェッ カープレート(先方の工事範囲)の不安定な所に乗って足を突っ込んだ事があり、 少々の慌て者に違いないが機械が悪い為の怪我ではないとレターを出した。
どうせ出すのだからと、先方の工事範囲で怪我しそうな所を幾つか列記し写真も添付 して出したが、何れも対策しようとせず、アチコチ穴が開いた侭となっている。

機械を入れ始めた時から雨になると工場内の 彼方此方で雨漏り となる。
10月からの半年間は乾季で雨が皆無だったから当然何も無かったが、雨季が近づき 何度かスコールが来る度に雨漏りも再開された。
機械の上に直接水滴が落ちる所も何個所かある始末。
写真入りで対策を喚起し、被害に対する保証はしないこと、雨季に備えて各職場 への大判シートの準備と見回り当番の設定要望などをレターしたが、下請業者に指示 しただけで、当面の対策は何もしていない。
責任は全て業者にあり、それで機械が止まっても何の痛みも感じない神経しか持ち合 わせていないらしい。
自分の責任範囲だけプログラムされているロボット同然と感じた。
其の日のスコールは午後2時過ぎに始まった。
例によってアチコチの通路で雨漏りが始まり、大きいバケツやインキ缶などが通路に 並ばれる。
吊り天井だから、天井の壁側から伝ってきた雨が真中の低い所(真下が通路)に集ま り滴り落ちる。
そのうち筋状になりダクトの下では「絹糸の滝」状に広がる。
突然照明が消えるが動力線は生きていて機械稼動は続いた。
漏電ブレーカで照明だけが消えたに違いない。
危険だ。
日本だと大騒ぎになる所だが此方では話題にもならない。
ナンバー印刷機室に居た者から、機械の真上からの雨漏りが酷いから直ぐに来て欲し いと連絡があった。
近くに居たP課長に、一緒に見に行こうと誘ったが、首を縦に振って(インド人の場 合はYESの表情として顎を左右に動かすから首を横に振ったように見え、NOの表 現として顎を下に動かしながら下向きに構えるから首を縦に振ったように見える)動 こうとしなかった。
我々に色々と便宜供与して呉れるP課長でさえ、責任回避プログラムの刷込み頭脳は 変わらない。

国も大きいからかネズミも大きいと思ったが、インドのは二十日鼠位らしい。
しかし未だお目にかかっていなく、彼等の仕事振りだけ何度も見せて貰った。
印刷胴の上に 粒粒のウンコが二つ、そして凸版部を二個所削ってしまった。
インド紙幣の絵柄を変えたいらしい。
早速写真入りでレターしたら、顧客側では森下仁丹みたいな餌を容器に入れて彼方此 方の溝の中に置きだした。
此れって若しかしたらネズミが好きそうな餌に混ぜて使う物でないの?。
案の定、何の効果も無しで被害が続いた。
配電盤内部の電線が好物なのか、それとも出っ歯を磨くのに良いのか、ウンコの量か らして住み着いてしまったやに見える。
この調子で雨季に入ったら雨漏り被害と一緒になって火災も起きかねないので、また またレターで一斉点検の勧めをしたが、何の動きも無い。
ネズミに責任を負わせるつもりか。

製品の品質はそれを作る機械にもよるが、使う人によっても違うのは当然のこと。
継続してデータを取ってグラフに表現していたら、土曜日に印刷した物が悪い週が何度 か続いたので担当のラ副課長に口頭で注意を喚起すると共に正式に工場長宛レターに した。
週末休みを控えてと、昼休みも交代で稼動させている事によるモラール低下が 原因だろうと。
そうしたら昼休み稼動の件では社員側からも問題視されているらしく、内部事情に口 出しするな(レターにするとは総務部受付に提出して控えコピーに受付印を貰うと本 紙が担当によって工場長へ持参する仕組みになっている。
我々が問題視している事を担当を通じて社内に広がる事を嫌っている)と言うのが工 場長からの口頭での回答だった。
しかしその後も品質の良い日と極端に悪い日があり、その原因が機械の為と言われて は堪らないので、再度、今度はレターを手渡しで出した。
昼休みの稼動は止めた方が良いと。
そのうち職場のアチコチで管理職何名かを社員達が囲んで議論する光景が目立ちだ し、昼休みの稼動も中止された。
本来は45分間、一斉に昼休みを取るのだが、生産アップの為に2年以上前から交代 で食事をしていたもの。
その間は少ない人数での稼動だから、労働過重となり出来た物の品質チェックも疎か になるのは当然のこと。
しかしその分の賃金アップは無しだから、そんな遣り方が何時までも続く訳が無い。
取り虫J副工場長の浅知恵と言った所。

そもそもこの会社は、前の印刷局のディワス工場とナシック工場の組合が強く、生産 性が悪くてオマケにサボタージュも度々あるものだから、インド中央銀行が自前で紙 幣製造会社を作ったもの。
若いJ副工場長は此処が見せ場と張り切って遣っているが、上記の通り昼休みの稼動 は出来なくなる、そしてついに組合が結成されて従業員の権利は大幅に保証されるこ ととなった。
「始業5分前には職場に居ること」などと言う唱和は此処ではナンセンスそのもの。
始業時の10分、昼休みの45分間の前後それぞれ10分、終業時前の15分が、日 本式に言う遅刻・早退・サボリが公認されているし、10時と3時には40パイサ( 1円15銭)でお茶が飲める。
そして、丸田は何と大変な事に気が付いたのだった。
新しい会社で、新しい機械を導入して、新たに募集した社員で動き出した工場だけれ ど、古い体質の印刷局から来た管理者が、この工場を駄目にしてしまうと。

(オリジナル:1999年6月6日、編集:2000年5月18日)

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