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インドからだよ〜ん-T

サルボニとその近くの人達
丸田に限らず海外が苦手な人は言葉と共に食べ物によることが多い。
インド人は特に食べ物に慎重で、その結果がベジタリアンを生み出していると言える。
日本に今年の1月から研修に来たEAPLの人達にベジタリアンは居なかったので、会社の社員食堂の食事と宿舎とした独身寮の食事を食べて貰った。
それ迄は彼らのサラリーからして、そうは飲めなかったビールの差し入れも結構あり、2ケ月位はそれで良かった。
でもやはりお国の料理恋しさに、お客の検査官や研修生を迎えた際に食堂でインド料理を提供する為の講習会を名目に、彼ら自身でインド料理を作り、食堂のマスターに教え、その作品を美味しそうに食べるのだった。
この講習会は休日の昼時に都合3回行われた。
その成果として、5月に迎えたベジタリアンを含むお客(トレニー)の評価はまずまずのものだった。
だが、インド料理はお客が居る間だけにしたので、その後のEAPLだけでも作って欲しいと団体交渉に及んで来た。
会社の食堂を使えた時は良かったが、茅ヶ崎に近い外注先(印刷後の仕上げ機を作っている)で迎えるインド人トレニーには如何にしたら良いか。
地域の観光協会から情報を取り寄せたり、現地調査をした結果、日本に帰化して貿易商も営むインド料理店「インダス」を見つけた。
インド人コックが4〜5名いて、インドの全地域の料理を作れること、日本にある他のインド料理は日本人の口に合わせているけれど、此処はインド料理そのものです、と自慢していた。
確かに心配していたベジタリアン向けも6種類程のメニューを用意し、全メニューは60を超えている。
湘南の海に近い辻堂団地の入り口に近い所にあり、調査や打ち合わせで何度か行って試食した際も、馴染み客らしい何組かが異国のハットな香りを楽しんでいた。
それで、昼は此処でお弁当を作って貰い、夜はホテルから2キロ程の此処で食事をして貰って、心配の種は一つ片付いたのだった。

一番の心配は、機械の搬入・据え付けから立ち上げにインドで仕事をする多くの日本人の食事だったが、一番確かな方法として日本からコックに同行して貰うこととなった。
主な食材も日本から運ぶとして、新鮮な野菜は現地調達しかない。
最初は現地会社のEAPLに任せたが、インドと言う国の広さと感性の違いを実感させただけの結果に終わった。
ここサルボニはインドの東、ベンガル地区だが、多くのEAPLメンバーはインドの西から来ており、言葉の違いに土地感の無さ、しかも車の手配も出来なくて満足な食材が集まらなかった。
そして買い集められた野菜は日本人の目には商品とは程遠く、半分以上は捨てなければならない。
地鶏は野良鶏を捉えて来たのではと思える程に汚く痩せている。
それならばと、ある日本人の豪傑が豚を丸ごと1頭見つけて来たのだけれど、開けてびっくり蟲が沸いていて食べられなかった。
そんなこんなで丸田が当地に来た時も食料問題が尾を引いていた。

弘法筆を選ぶで、コックの須藤さんが自ら野菜の買い出しをするようになった、との事で、丸田も同行してみた。
EAPLのアルマーダ(ジープ)で運転手と須藤さんの助手のヘモンと4人で出かける。
通勤のダスとその仲間と同様に、近道を猛スピードですり抜けようとするから、身体が左右に揺れる。
「おい、今日は早いんだから、もっとゆっくりで好いよ」「判った、判った」と言ったニュアンスの会話。
キャンパスの北東に位置するゲートへ向かっている。
浄水場らしい施設の横を過ぎて、更に1キロ位は構内を走る。
草木が疎らに生えていて、左に工場への引込線が並行している。
キャンパスのゲートに差し掛かった。
スマートなポリスが鉄砲を背にこちらの中を覗き込むと、にこっと頷いて格子の鉄の扉を開いて呉れた。
顔パスだ。その侭真っ直ぐ更に1キロほどの街道へ向かう。
街道迄は出会う車は無い。
両脇は荒れ地だったのだろうが、ユーカリの木を規則正しく植え込んだばかりのよう。
キャンパス外だから政府の事業ではないらしい。
民家が一軒あって如何にも現地人風とした子供が男女二人、視線を追ってくる。
小さく痩せたヤギと一緒に。
街道は此処サルボニに来た時の街道筋と同じで、民家がちらほらあって、それが次第に多くなって来た。
サルボニの村に入った。
右に米軍払い出し品を扱っているような、やや文明を感じる店があってコーラなんかを売っている。
隣がニワトリ屋さんで、3段位のケージに十数羽、野良鶏が捉えられて売られている。
痩せていて尚且つ泥くさい。
須藤さんに促されてヘモンが駆け足で注文に行く。
帰りに卵を引き取るので今は個数と「汚れていない卵だけだよ」のオーダーだけ。
その侭走り続けると両脇に店がちらちらあって、「ここがサルボニのはずれだよ」の所まで来て、大きな賑わいだマーケットに着いた。
横道へ入って車を降りる。
結構広い。テニスコートが二面半位は取れそうな広さだ。
目当ての野菜は丁度真ん中辺りにあって、其々の店が畳一枚程度の麻の敷物に、持参の野菜を広げて売っている。
屋根と柱だけの牛舎風の下で売っている店もあれば、青天井の下の店もある。
売り子は勿論生産者自身で、客引きの声を出す分けでもなく、客が品定めに下から抜いたりひっくり返したりして買って呉れるのを待つだけ。
決まると傍らからデカイ天秤を取り出して、片方に野菜、もう片方には六角形の鋳物の重りを数個入れてバランスをとる。
殆ど一発で決まってしまうが、それでも必ず天秤を使う。
小ネギを二つ買って行った客にだけは天秤を使わずに、アチャチャチャチャーッてな調子で値段を言って、客は汚れた10ルピー札を渡すと、自分が座っている敷物の下から小銭を取り出して釣りを渡している。
やはり汚れて絵柄の判別も難しい5ルピー札に1ルピー札が2枚。
つまり小ネギが一本 5円となる。
売り子(と言っても子供でなくて年は70位に見える皺枯れたお爺いさん)の後ろで、須藤さんは先ほどから小ネギの山と格闘している。
もう10分にもなる。
下の方が紫になっているのは硬くて捨てる所が多いのか、白くて大振りなのを選んで買い込んだ。この晩このネギは酢味噌和えになった。日本の味だ。
ずっと中へ入って40〜50才前後の夫婦が店を出している所に来た。
「ほら、今日は早く来たから良いほうれん草があるでしょう。
ヤショダール(EAPLの若息子)は坊ちゃんで自分で買い物に行かないから、この辺の事が判らないんだ」と言いながら、選別に入る。
横から別の客が並んで選別しようとするとそれを遮っての奮闘ぶり。
須藤さんが避けたほうれん草を全部買って行ったので、この夫婦は早くも店終いとなった。
やはり早く来ないと良い物は手に入らない。
9時半を少し過ぎた所だった。
両手に持ち切れない程のほうれん草で10ルピー、約30円になる。
お金を管理させているヘモンが向こうで買い物中で、中々こちらに来ない。
「丸田さん、10ルピー貸してよ」。
直ぐ近くの店で長さが半分位しかないほうれん草を山にして売っている。
今度はこちらの店のが売れるんだろう。<> 「やはり土地の関係なのかねー」と須藤さん。
この西ベンガル一帯が一枚の岩盤みたいで、硬い土地のようだ。
地震は無くて良いかもしれないが、土地は全体に酸性で痩せている。
根菜類が良く育っていないし、葉物も中々瑞々しいものにお目にかかれない。
酸性だからほうれん草も連作出来ないのだとか。
近くに広々とした水田があって、日本の風景に似ているが、その刈り取った後には別の物を植える。
野菜としては他にジャガイモに唐辛子に、粉にする前のインド料理によく使う黄色いターメリック、これは鉛筆を少し太くした位のゴボウのような黄色の根らしい。
ジャガイモは山になっているが、鍬で傷付けたのか所々に切れ込みが入っている。
紫外線処理をしていないので、直ぐに芽を吹いて来るのだと言う。
ブロッコリーは日本と同じだ。
茄子も日本で見かけそうな形だが、色は紫でなくて黄緑っぽくてずんぐりもっくりしている。
皮が硬くて味噌汁にした時は外皮を出さなければならない。
「いゃー、皮をもみんな取っちゃうと、形が無くなっちゃうんですよ」 ご最もだ。
キャベツは中玉位だが、割と良さそうな感じがする。
「でもねぇ、奴等は良く見せようと、ほら、水を振り掛けているでしょう。
あれをやられちゃうと持たないんですよー。
日本じゃ、雨露に当たったキャベツは製品にならないんですから。
もっとも、彼らは蓄える前に食べちゃうんだから、関係ないんでしょうがねー」

市場の真ん中が野菜類で斜め奥に川魚の店が数軒並ぶ。
40センチもあろうかと思える草魚の仲間が山と積まれている。
こちらへ来てすっかり魚から遠くなっている。
美味しそうだけれど、必ず蟲が居るのだと言う。
「相原さんが今晩帰って来て呉れれば丸紅から美味しい魚が入って来ますよ」 うん、それに期待しよう。
ずーと奥には陶器の店が少し並ぶ。
強い日差しに映える明るい茶色で、素焼きの大きな壷や広口の洗面器位の大きさの容器が並んでいる。
市場の手前から入って車を回した辺りにサリー等の着るものも売っている。
極彩色の朱赤にバラ色っぽい、所々に明るい緑系の色合いが多い。
一方街道を挟んだ向かい側は果物屋さんだ。
カルカッタのホテルでも出た小さいリンゴに少しアバタになって膨らんでいるミカン、それにモンキーバナナは日本でも見かける果物とそんなに変わらない。
黄色になった食べごろかと見える房と真っ青で未だ暫くは食べられそうに無い房とが、其々五つ六つを糸で吊るして売っている。
当地に来てから果物には全く有り付いていない。
少し買って帰ろう。
須藤さんが聞いて呉れたら形は同じでも黄色いのと青いのとでは種類が違うのだと言う。
黄色のを双房買った。
本数で値段が決まるのだと言う。
30本程で20ルピー、60円。
日本で買えば150円位なものだから、野菜と比べたらかなり高い。
遠くから運んで来たものなのか。
ザクロやイチヂクに似たもの、ココナッツもある。
毛むくじゃらなココナッツを半分にカットしてあるのを須藤さんが爪の先ほど毟って口に運んだ。
私も真似をすると、サクサクッとして蓮のような歯ざわりが、噛み込んでいくと香ばしい汁が出てきてミルクのよう。

所がこれがどうもこの毟って食べたのが良くなかったのではなかろうか。
この日の夕食後になってお腹が急にゴロゴロして催して来た。
それから寝てからも、ほぼ30分毎に目が覚めてトイレに直行。
微熱が出て、血圧も何時もより10程高くて、脈も100以上をキープしている。
文明人は公害などには強くなっているが、自然のちょっとした細菌などには免疫が無くて弱いのだろう。
逆に普段から自然の中で生活している者は公害や街の喧騒に弱くて精神衛生的に参ってしまう。
身体が現地に順応するまでは色々と起きても仕方が無い。
買い物は一時間程かかり、選り分けた野菜や頼んでおいた卵の五段重ねパックを積みながら帰路へ付いた。
異国の地でその地場の物を材料に日本料理を作るのは、やはり大変なことだ。
その日の夕食は何となく味わい深かった。
サルボニ村のマーケットには何とか仕事の合間に覗いて来れたが、近くの街と言っても軽く40キロはあるし、カルカッタから此処迄来た時の事を考えると、体調の良い時でなければならず、結局最後の日曜日まで待つ事となった。

その日、鉄道の分岐点として要所になっているカラグプールと言う街で買い物と昼食会が計画され、買い物グループは9時半発、食事だけのグループは11時半発で全部で5台に分乗して出かけた。
来た時もそうだったが、大型車一台分の道路を両方からフルスピードで近づいて、直前で互いに交わす此方の運転術は、慣れる程に怖さを増して来る。初めは周り全部が奇異だったから気持ちがあちこちと散っていたのだろう、さほど感じなかった所もあったが、景色に慣れるとこの運転術だけが奇異の侭で残っている。
通りは車だけではない。
特にこの日は牛に引かせた荷車が多い。
牛だってでこぼこな路側よりは舗装されたアスファルト上が歩き良いから、自然と真ん中へ寄って来る。
後ろからクラクションで威嚇しても牛には効き目が無い。
御者が鞭で耳の横辺りを突ついてやっと傍へ避けてくれる。
自転車も同じででこぼこよりはと舗装部分を走る。
その舗装も雨季で痛んだ所を継ぎ接ぎだらけの舗装だから、走ってる間に中ほどへ寄って来る事もある。
従って前に自転車が走っているだけでクラクションが鳴らされる。
そのクラクションでも中々避けてはくれない。
音の調子や近づき方で後ろに目があるのでないかと思わんばかりに直前で避ける。
これだけでも大変なのに前のトラックなどの低速車に追いつくと、それを抜きにかかる。
これこそ後ろからしつこい程にクラクションで威嚇して、相手が諦めて左へ寄ると前から車が来ようが前へ出て先を急ぐのだ。
1時間以上もこの連続で身体が硬くなった侭だと、そのうち一種のリズムを感じ出した。
そうか、これは勝つか負けるかの勝負じゃないんだ。
限られたスペースを皆で最大限に活用する手段として長い歴史の中で育ってきたものなのだ。
強い者だけが限られた物を享受するわけではなく、それなりに皆で分け合ってこの国では生活しているに違いない。
日本人的な尺度でこの国を理解しようとしても判らない事が多すぎる。
現実を素直に見つめてそこからこの国を理解していこう。

一時間程走って大きなロータリーに出た。
直径が100メートルもあるロータリーだが、カルカッタからボンベイまで1000キロ以上も続く国道と交差したのだ。
どの車も1/4周から3/4周はこのロータリーを回るのだが、全体的に車の量が日本程多くないから、徐行して差し掛かれば信号無しでスムーズな流れとなって通り過ぎることが出来る。
何処からともなくカラグプールの街が始まった。
歩く人が多くなる。
自転車も多い。
幾つかの辻を曲がって一際賑わいでいる所で止った。
マーケット街だ。
日曜日の昼前だが、其々の店に数名の客が居る程度の混みよう。
ウインドーのないウインドショッピングには丁度良い。
全体の広さは200メートル四方もあろうか、露天は無くて其々が一坪から間口5メートル位の店を構える。
コウモリやナマケモノが天井からぶら下がったようなインド独特の字と、ペンキが剥がれてやっとそれと判る英語の字とが入り交じった極彩色の看板が思い思いに連なる。
扱っている物は日本で言えば住宅地の真ん中にあるスーパーマーケットと言う所だろう。
勿論売っている物は日本とインドとでは違うが、日常生活で必要な物が此処へ来れば殆ど揃うと言う感じだ。
食べ物、衣料品、家具、電気品、日用品の類だが、観光客は全くと言って良いほど来ないから、それ目当ての品物は先ず見当たらない。
従ってお土産に何かを買おうとしたが、丸田に限らず何かを買った人は少なかった。
子供が店先で皿洗いとウエーターをしている食堂があった。
丸いプレートに小麦粉状の溶かした物を倶の無いお好み焼きの様に薄く焼き、煎餅の様に硬くならないうちに形を作って丸めて金属のプレートに入れる。
そしてカレー状の液体を二種類位、プレートの窪んだ所に注いで一人前。
一見して化粧品店と判るビンの容器に入った液体入りを売っているが、ラベルが有ったり無かったり、中の液体も均一でないような感じがして、どうも近寄り難い。
食器類や器の類もインド的と言えばインド的で、シンプルな形に淡い色で申し訳程度に色彩を付けている。
荷物にもなるし種類も少なくて土産にはなりそうもない。
この辺りには野菜は見当たらない。
果物は真っ青なバナナが抱えられない位の大きな房の侭で道路を半分占領して並べられているが、車でなければとても持ち帰れない。
卸の店だったのだろうか。
他にもリンゴとかマンゴーなど或る程度の種類で店先を飾っている。
着るものは安そうだ。
Tシャツや今のシーズンに必要な厚手のシャツ、西洋風の子供や女性のドレスもある。
勿論各種サリーもあちこちで売っている。
暫く滞在する何人かが、シャツの仕立てを頼んでいた。
1000円足らずで出来る。
ハンカチや大きなスカーフもあって、これなどサリーの一種として身に付けるのだろう。
赤系の原色が多く日本で使う人はコーディネート良く着こなせるか、イナカッペになるか、どちらかだろう。
値段を聞いたが好く聞き取れない。
インド人風に首をゆっくり左右に倒しながら顎も左右に振って次の店に移動した。
一つずつ包まれて広口のビンに入れて売っているキャンディ、20枚位を包にしているビスケット、これらは何種類も間口の小さい店で並べていた。
値段を聞くと8ルピーから12ルピー、こちらは良く聞き取れた。
日本なら200円前後だろうか、一包30〜40円になる。
出掛けに我が子供が「インドの字が書かれているお菓子」を所望していたから、これにしよう。
鞄の類も安いし、文明国でも結構通用しそうだ。
この店はきちんと正札が付いている。
念のため値段を聞いたが間違いない。
毎日工場へ行くのにノートパソコンを持ち帰りしているのだが、適当な入れ物が無くてビニールの袋に入れていた。
ショルダーにもなるリュック・サックで125ルピー、400円見当か。
さっき買ったビスケットを入れて肩から引っ下げた。
自転車もあるし、机・椅子もあるし、ラジカセ、フィルム‥‥カルカッタから120キロ、交通の要所だけに、結構揃えられるようだ。

12時まで適当に周りをぶらついて、次の目的地の中華店に行った。
広い敷地に文化住宅(コンクリーの柱にレンガの壁をモルタルで仕上げた二階建ての長屋)が並ぶ。
車に歩きに自転車に人力車が絶え間無く通る。
日曜日は休みの所、我々の為に開いてくれている、中国の家族ぐるみの中華店。
待ってる間に国産ビールとポテトチップスでつなぐ。
キングフィッシャービール、8.75%、1857年からと言えば明治の前だ。
進んでるー。
ハットなチップスに濃いビール。
ハイネッケンに似た癖のある地ビールと思えば良い。
インド産のモルトウイスキーもある。
こちらは300ルピーとか。
何れにしても日本では安いがインドの庶民には手も口も共に自腹では出ない。
中華で出てきた物は小さく少し細長いお米を使ったチャーハンが何種類かと、野菜と肉を使った炒め物が数種。
EAPLのメンバーも来ていたから20人以上になった。
電灯が無いから少々暗い所で、ラジカセで日本のメロディにインドの歌のBGM、夕食用のチャーハンを含めて1万ルピー余りだった。
日本円で見ると安いが、ここの経営者はこの半日の貸し切りで一週間分の稼ぎになったのではないだろうか。
この時にEAPLのヤショダールの奥さんが来ていた。
カルカッタからサルボニへ向かった時に途中の休憩所で歓迎してくれた。
名前はウジュワラさん。29歳。
ヤショダールとは1歳違い。
小柄でヤショダールに負けずに目のくりっとしためんこい娘だ。
緑系のドレスに赤系のサリーで合わせている。
首にはヤショダールが草加のデパートで土産に買った1500円のネックレスをしていた。
彼らにとって500ルピーのアクセサリーは大変な物だ。

この店を出て、他の人達は来た車に分乗してサルボニへ帰ったが、ヤショダール達が丸田をIITに案内してくれた。
相原参事も後見人として一緒してくれた。
IITとはインタナショナル・インダストリアル・テクノロジーの大学。由緒正しい国立大学だが、日本の帝国大学程のものではないらしい。
それでも全インドに6ケ所作られた歴史あるものだと言う。
キャンパスはそれ迄見てきたインドとは、ここもインドかと思うばかりの違いにびっくり。
北大の構内に居る雰囲気なのだ。
木の種類は違うが広葉樹が15メートルはあろうと思う高さで茂っている。
正門は立派な門構えで守衛の警備も、中へ入ってロータリーがあり、その真ん中に創立者らしい像もあって、立派なものだ。
5人で構内をぶらつく。
其々の学部毎に特徴ある建物だが、やはりインド的でなく、どちらかと言うと西洋的な作りをしている。
半分出来かかった経営学部の校舎には屋上にプラネタリウムらしい工事も進んでいて、前の噴水には御影石のアンバランスにバランスのとれたモニュメントが出来ている。 更に奥へ行く。
高い塔があり、小さい部屋が並んでいるのが外からも見える。
昔のイギリス統治下の監獄の跡で、今は博物館になっている。
インド人が此処を襲撃して捕まり絞首刑になったとか。
正面にインド空軍の戦闘機とその奥に蒸気機関車が置かれている。
単座のジェット戦闘機でイギリス製らしい。
機関車は日本と同じ位の軌道の広さで、その割に機関車は小振りだ。
小さい動輪が四つのDタイプで、日本なら貨車用だが、当地では何に使っていたのだろう。
インドは広い国で世界4位の路線を有するとか。
幹線は次第に広軌に変わって来ていると言うから、最近まで現役で活躍していたのかもしれない。
帰り道で沢山の自転車がある建物の傍を通った。
映画をやっているのだとか。
金曜、土曜、日曜の週3日間で、日によって、英語、ヒンズー語、ベンガル語の上映なのだそうだ。
ここは多民族国家だった。
大学構内の周りは関連施設が沢山ある。
面積では2キロ四方位はあるだろう。
サルボニのキャンパスより大きい。
また此処はサルボニのモデルになりそうだ。
教員の子供の為に学校もあるし、病院もある。
マーケットもあるし、そしてゲストハウスもある。
ゲストハウスに入ってみた。
サルボニのゲストハウスが満室の時には工場のラヒリに頼んで此処を予約して貰っている。
カウンターがあってロビーに食堂に、ドーナツ状に配置された個室が全部で20室位。
日本の普通のビジネスホテルと全く変わらない程だ。
違うのはトイレに手桶が用意されているのと、バスタブが無くてシャワーだけ位だろう。
何日間か滞在するには充分の設備だ。

マーケットにも行ってみた。
先ほどのマーケットよりも小奇麗な感じだ。
やはり大学に付随したものだからか。
広場があって子供が遊んでいる間に買い物が出来る感じで、何処かの団地の商店街のような作りになっている。
やはり日用品は殆どここで揃う。
ヤショダールが果物屋に連れて行く。
ココナッツ(椰子の実)を飲んだ事があるかと言うので正直に無いと言うと、飲んでみろと一つ注文した。
店の爺いちゃんが蛮刀を取り出して器用に頭の所を削り取り、ストローを差して渡してくれた。
期待して飲んだ訳ではないが、甘いのでもない、酸っぱくもない、ねろっとした所があってお世辞にも美味いとは言えない。
悪いけれど、我慢して三口ほど飲んだが、はい有り難うと手放した。
相原参事が後を引き取ってくれたが、やはり同じ位飲んで、爺いちゃんに戻した。
これが暑い日照りで喉がからから、しかも冷えていたなら、こんなご馳走はないだろう。
贅沢言って御免。
EAPLのアツールが支払った。5ルピー。
野生の椰子の実かもしれないが、輸送費だってかかろうに。
確か沖縄のやんばる民芸館では500円で飲ませていたよ。土産に一つ買って行こう。

あちこち足を伸ばしたら、すっかり遅くなってしまった。
これからあの地獄のような道を帰らなくてはならない。
走るうちにもうとっぷり暮れてきた。
隣で相原参事は居眠りを始めた。
さすが変なインド人の称号は伊達でない。
ゲストハウスに着いたらどっと疲れが出て来て、夕食も食べずに寝てしまった。
目覚めた所が日本だったら良いのだけれど‥‥

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