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インドからだよ〜ん-T

キヤンパス内の見て歩き
普段はゲストハウスと工場間の往復のみだが、折角の日曜日だからと自転車で乗り出した。
先ずはカルカッタから来た方のゲート。
ゲストハウスの直ぐ北にあるロータリーから右へ曲がるのだが、もう200メートル位の所にゲートがある。
こんなに近かったのか。
道路が少し曲がった先の道路脇に人の動きが見える。
そしてグレーの建物。
そうか、此処へ来る時に右側に鶏舎のように見えたのは、工場建設に従事している人夫の飯場だったのか。
毎朝8時を過ぎると部屋の窓からぞろぞろ工場へ向かう人夫の列が見えていたっけ。
その数300人は下らない。
昼夜交代で1000人前後が来年の春の工場完成を目標に建設中と聞いているから、間違いない。
彼らも皆、一日50ルピーの口なのか。
家族を田舎に置いて単身赴任で飯場で生活しているのだろう。
鉄格子のゲートはロックを掛けずに閉じてあり、制服のポリスが番屋にいるのが見える。
今日は外へは出ないからと、そのままUターン。
そしてロータリーまで戻りゲストハウスからだと直進する方向に向かう。
道が未だ充分に舗装されていない。
斜めにメイン道路に交差する。
この道路は給水塔のあるロータリーから北東に伸びる道路で、先ほどのゲートとは別のゲートを経由してサルボニの村に通じる。
今日もスマートなポリスが居るかもしれないが、そこまで行く必要はない。
引き返そうとすると右側に囲いをした地下施設から自転車で出てきた作業者風の人がゲートに向かった。
キャンパスの中でもこの辺りは比較的高い位置にあるから、浄水施設かもしれない。
テニスコート6面位の広さだ。
引き返して走りはじめると今度は歩いてゲートへ向かう二人づれに会う。
今日はキャンパスの中で作業はしてないと思うのだが、既にキャンパス内で生活している社員だろうか。
こう見るとゲストハウスはキャンパス内でもゲートに近い所にある。

ゲストハウスの並びに工場長の社宅がある。
敷地が一反振り位、平屋で25坪位だろうか。
その他の住宅は殆ど2階建てで、平屋でも背中合わせの二軒屋だが、ここだけは立派な一戸建てとなっている。
工場長は一人しか居ないから当然か。
工場長の下には四人の部長クラスと一人の部長職がいるが、一軒家は貰えない。
二戸建てか四戸建てのマンションと言うより長屋のイメージなのだ。
部課長用の住宅は既にゲストハウスの近くに出来ているが、全員未だ家族が来ていないので、独身用の住宅に住んでいると言う。
この様にゲートに近い方からボツボツと住宅が出来つつあり、工場との間で更に盛んに作っている。
作りかけの様子から工程を推測すると、四角い家の四隅と中の角々に鉄筋入りの基礎を埋め込む。
深さ 1メートル程度。
コンクリートの上には鉄筋が数本出ていて、後で柱を作る際に繋ぐ。
壁の下の土台になる部分もコンクリートで作るが、地面の硬い所からコンクリートで土台を作るのでなく、土の上からレンガを千鳥に交互に風通しの隙間を開けて組んでは水平な土台のレベルにしている。
壁もレンガで組んで行く。
窓の上の部分は開いた両側のレンガを次第に近づくように迫り出して来て、アーチ状にして窓の上の壁とするから、外から見ると窓の上の部分は必ずアーチ状になる。
このデザインはレンガで作る中近東やヨーロッパ南部の家に共通している。
レンガの積み重ねだから、震度3程度の地震でも見事に崩壊してしまう。
インドでは地震の心配は無いとの事だけれど、地球の歴史のレベルで言えば何時突然に来ても文句は言えない。
ヒンズーの神よ、停電は辛抱しますから、地震だけは勘弁して下さい。

自転車で少し走るだけで動物がチラチラ見える。
犬は日本の犬と同じだが、割合と大人しい。
吠えてる所を見たり聞いたりした事がない。
そう言えばゲストハウスにも一匹いたが、日陰で腹ばいになって居眠りしている風で、ちょっかいを出しても相手にしてくれなかったっけ。
道路で自転車の前を平然として横切っていく。
その先をカラスが飛び出す。
ネズミ状の物を咥えているが良く見えない。
インドのカラスもやはりカラスだ。
だけど一匹だけだった。
牛が二頭、草を食んでいる。
インドの牛は神様かと言うと、神様は別に居て、神様に仕えている動物のようだ。
別段と大事にしている風には見えず、カルカッタから此処へ来る時にも荷車を牛に引かせている所を見た。
ただ、道端に居ることは確かで、車の邪魔になってスレスレでかすめて行く事もある。
見た所は牛を放置している感じだ。
つまり野良牛と言う奴だ。
そこいら中に結構草が生えているから、牛は誰の土地であろうと食べて生きているって感じなのである。

朝の6時過ぎにお決まりの列車が通る。
6時15分、自転車で出かけた。
給水塔から奥の方へは未だ行っていない。
残業になって手前の出入り口が閉まってしまうと正面出入り口のロータリーへ回って出て来るが、その時は辺りが暗いから良く分からない。
この辺りにはスタジアムやプレイラウンドの計画となっているが、どうもそれらしい建物を作っているようには見受けられない。
給水塔から工場の正面入り口のロータリーを通り過ぎて、先の給水塔らしい所までは真直ぐだ。
この先には住宅街に続く道路が出来る筈だが、未だそこまでは出来ていない。
この辺りにこの工場建設を請け負っているメコンの事務所があると言うがそれも良く分からない。
先日EAPLの誰かが、メコンの事務所の近くで買ってきたと言って、日本の餃子と春巻きを合わせて2で割った(半分になっている訳ではなくて、形が似ている)ような格好の食べ物を工場内に持ってきた。
どうやらスポンサーはイギリス人のタッカーさんらしい。
丁度夕方で腹の蟲が泣き出す頃だったので、出し渋る手も遂には出てしまった。
ハット(辛い)でスパイシーなインド料理独特の香りがする。
ジャガイモに豆を擦り潰してインドの香辛料を混ぜ、薄皮に巻いて揚げた物だ。
食べると割と美味い。
EAPLのヤショダール達が日本に来ていた時に自分達で作っていた料理の味と同じだ。
名前を聞くとサモサと言うそうだ。
そう言えば、ヤショダールが日本へ来た時に餃子を好んで食べていた。
インドにも似た物があったのだ。
値段は一個が1ルピー。
ここの食堂の定食の値段3ルピーと比べると高いが、日本の餃子と比べると1/15位のものか。
日本で食べたインド料理では何ともなかったが、本場のインド料理は食べ過ぎると怖い。
この時は2個だけにしておいた。
その後タッカーは何度か皆に振る舞ってくれた。
同じ英国連邦だからか、イギリス人は辛いインド料理が好きなようだ。

少し離れた敷地の端に変電所のような感じの施設が見える。
停電時に作動する発電所だろう。
最初のメンバーが来て直ぐには随分と停電があったようだ。
最近でも週に1〜2回は停電し数呼吸して電灯ラインだけは点灯する。
この施設が働いているのだろう。
今回入れた機械装置の中で、電源の状態が悪くて不具合が出ているが、所定の電灯線の240Vが実際には215Vから250Vまで変動する。
周波数も所定の50ヘルツが48ヘルツから53ヘルツ位まで変化する。
日本では周波数が変わるなど先ず考えられない。
モーターのスピードが上がったり下がったり、色々と不具合が出てしまう。
ゲストハウスに持ち込んだテレビと電気炊飯器がこの電気事情で壊れてしまっている。
マイコン付きが良くなかったのだろうと、丸田は秋葉原からマイコン無しの炊飯器を探してインドに持ち込んだのだった。
何せご版が食べられなくなったら日本人は力が出ない。
力が出ないと気力も落ちる。
そして仕事の意欲が無くなって、このプロジェクトは失敗する。
だから炊飯器がプロジェクトを成功へ導く??

立派な看板を付けたトレーニング・センターも出来ている。
体育館でのウエイト・トレーニングやプールを連想する建物だが、その割には天井の低い建物だ。
そう、日本風には研修センターと言った所だ。
この工場は素人ばかりの集まりだから、研修施設はプロジェクトを成功へ導く。
ぐるっと、辺りを見回して、その侭戻って来たら船田係長が走ってきた。
その少し後から沼内君も走っている。
他に走っている人は居ない。
陸の孤島内では各自が健康維持と気分転換の工夫を凝らしている。
さしずめ丸田の工夫は執筆活動と言うことか。
ここインドでの執筆が最初で最後となろう。
手品の種は何時までも隠し持つつもりだが、話の種は此処で出し切るつもりだ。

刑務所のような監視塔のある工場敷地の辻から斜めに、もう一本の広い道路が出来ている。
行ってみよう。
少し行くと十メートル角位に区切られて、幾つもコンクリート舗装されて繋がっている広いエリアに出た。
全体としては細長い。
このキャンパスは軍隊の飛行場の跡とのことだから、この辺りはエプロンとして使っていた所かもしれない。
そうすると工場正面のメイン通路が滑走路と言うことになる。
1000メートル程の滑走路があったのだろう。
エプロンの先にも道路が伸びていて、第2期工事分の筈だが、右側に結構住宅の工事が進んでいる。
所々から朝げを作る煙が立つ。
殆んど板切れを集めて囲いを作った程度の所に工事の関係者が飯場を作っているが、背の高い草むらに隠れて様子が判らない。
今の季節は多少は夜が冷え込むが、毛布一つで何とか凌いでいるのだろうか。
先日工場でコンテナー車から機械の荷降ろしをしたが、一度に6台のトレーラが集中し、順番待ちの車が何台かあった。
運転手は夜明かしとなったが、ホテルがある場所でなし、仮にあったとしても一日働いて50ルピーの賃金では野宿しかない。
朝、我々が出勤する際に彼らのトレーラーの傍をすり抜けた時、車の下で未だ寝ている彼らが居た。
軍隊から払い下げられた様な汚れきった毛布一枚に、頭から爪先まですっぽりと包って、まるでみの虫みたいだった。
一人の彫りの深いぎょろりとした目つきのインド人が未舗装の土を固めただけの道路を目の前で右から左へ横切った。
左側は雑草の侭で何も無い。
手に金属性の小さな壷をぶら下げている。
歩を進める度にぴちゃぴちゃとしずくがこぼれる。
そうインドのトイレに行くのだ。
日本では野糞とか、地方によってはネリモサと言うが、此処では当たり前だから、そんな下品な言い方をすると失礼になる。
見て見ぬふりをして、さり気なく先へ行く。
直ぐに道路は土盛り中で自転車では行けない所に突き当たる。
引き返すとまたまた何人かが手に思い思いに器をぶら下げて道路を横断し、先ほどのギョロ目が右から左へ帰っていく。
足取りも軽い。
すっきりして目が覚めたか。
彼らが水を如何に使うか、見ていた訳ではないから想像(好んでする訳ではない)するだけだが、事の後で左手で処理しているらしい。
彼らの(野糞用でなく)正式なトイレには必ず蛇口がついていて、更にバケツと手桶がペアになっている。
蛇口が無い所では手桶だけがあって、近くある水場から汲んでからトイレに入る。
ちなみにこの工場のトイレは、工場長が居る管理棟にはオフィサー(課長補佐以上の管理職)用とスタッフ(職員と言ったイメージでエンジニアとして認められている者)用とが別れている。
一応は洋式便器だが、紙のストックは無くて、蛇口とバケツと手桶とがセットになっている。
そして一般工員が使うトイレは工場のポリスが監視する玄関を入って直ぐのロッカー室に付随してあり、和式の便器に似ている。
所が此処には蛇口しかない。
自らの所有物は自らの左手で処理出来るとして、自らの身体から離れた代物は如何に処理すべきなのか、其処に溜めておくには忍びない。
一瞬考えてしまうが、「なるほど・ザ・ワールド」だ。
世界は広いし、合理的に出来ている。
蛇口から出た水が手を洗ってそのまま代物をも流すではないか。
床に付けられた僅かな勾配によってニュートンの原理に逆らうことなく仕事をしてくれる。
所で、インドの和式に類似した便器にはキンカクシが無い。
密室には少なくともカクス機能は必要ないから、インド式はこの点でも合理的と言って良い。
オトコは指向性が取れる構造を有しているが、その点でオンナこそキンカクシが必要かもしれないに、インドではどうなっているのか。
そして日本のそれは何故キンカクシと言うのか。
「なるほど・ザ・ワールド」の問題になりそうだ。
昔は日本でも水を使っていた。
中国でもそうだった、と言うより、紙が無ければ草で処理するより水の方が良いから、昔は何処でも水だったかもしれない。
小川を引いて、その上に小屋を建てて、流れる水に代物を流し、自らの所有物も左手で処理する。
そうだ。昔はみんな、水洗トイレだったのだ。
だからトイレの事を厠(かわや)と言ってかわにこやなのだ。
そしてキンカクシだが、これは武士が戦場で鎧を付けた侭で用足しをする際に、鎧の重さでずっこけてしまうのを支える為に必要だったのだが、それが城のトイレでも武家屋敷のトイレでも付けられるようになり、今に受け継がれているのだ。
オンナにとって必要か否かはデバガメ的なものでしかない。
今の時代には不要とも思えるキンカクシだが、スキー場のトイレには必要だ。
硬い靴底で足首をガッチリと固定する最近のスキー靴は、ウンチングスタイルでは後ろに重心が架かってしまうからキンカクシが役に立つ。

ギョロ目の叔父さんに話を戻そう。
前を何人も横切られるとそのうちついつい行く先を目で追ってしまう。
何の事はない。道端からほんの5〜6メートルの所でしゃがみ込んでいる。
毎日毎日使っているのだろうに、穴でも掘ってあるのだろうか。
興味はあるが其処まで覗きに行く訳にはいかない。
まあ、いいさ、何れはこの辺りは住宅が並び、庭か家庭菜園になるのだから、肥やしが効いた土地に育つに違いない。
紙を使わないから痔病は少ないのでないかと思うけれど、その代り左の手は不浄の手として別に扱う事情がここにある。
古来より握手は右手でするものだし、野球選手以外は右利きが良いとされる。
ゴルフのクラブにしても野球のグラブにしても裁ち鋏にしても、右利き用が安い。右手は仕事をする手なのだ。
彼らは不浄の左手を使わずに器用に右手だけで食事をする。
日本人も素手で寿司を食べるが、刺し身や天ぷらは箸を使う。
彼らは煮物も汁物も全て右手一本だけで食べる。
最近工場に出来た食堂を覗いたら、大き目の皿に混ぜご飯風に、川魚の煮付けに、カレーに、何かをだんごにしたようなもの等が盛り分けられていたが、右手でご飯を摘んで他の物と混ぜて食べている。
EAPLのヤショダール達が日本での研修中、何度か一緒にインド料理を食べに行った。
最初は箸やスプーンで食べていたが、そのうちじれったくなるのか、カレーで煮付けて真っ赤になったチキン(タンドリーチキン)を右手で掴んでむしゃぶり付き始めた。
食べた後で如何にもストレス解消になったような顔つきをしていた。
粉にした穀類を練って平らにした物を専用の釜で焼いたインドのナンも、右手だけで器用にちぎって食べる。
中指で押さえておいて、親指と人差し指で引き裂いて食べるのだが、真似るとこちらがストレス一杯になってしまう。
日本でインド人の食べる物と言うと、ベジタリアンには対応に苦労する。
四つ足は食べないと言うソフトなベジタリアンから、肉類は勿論、卵もチーズも牛乳も駄目、では野菜なら大概の物は食べるかと言うと、キノコのようにインドで食べた事のない物も食べないから、レストランに行っても殆ど食べる物が無い。
休日観光に同行して、ファミリーレストランで昼食をした時は、ほうれん草の炒め物に入っているハムを除いて作って貰い、それにポテトチップスだけの食事となった。
それでもビールでも飲んでくれると良いのだが、ベジタリアンは大概アルコールも駄目だから、この人等は何を楽しみにして生きているのか、と思う位だ。
昼食は食べる物が無くて、夕食にインド料理に案内した所、写真入りのメニューを見ながら、テーブルに載せ切らない程にたらふく注文し、例によって右手だけでむしゃぶりつくのだった。
ベジタリアンでなくとも、アルコールは強くない。
日本でビールを出されても最初は飲まない人が多いが、インドへ来るとその辺の事情が判る。
ビールは40ルピー、120円程で日本よりかなり安いが、こちらのサラリーに比べたらベラボウに高い。
一日50ルピーの人が40ルピーでビールを飲むとは考えられない。
しかし飲めば美味いから、ノンドリンカーで来日しても愛飲家で帰国するインド人は多い。

ギョロ目の叔父さんの所を過ぎて、一度メイン通路に戻ってから、次の脇道に入る。
結構住宅が出来ていて、住んでいる気配が感じられる。
でかい白い布を何枚も木から木へ渡した綱に干している家がある。
数えると10枚以上ある。
あれはシーツではないのか。
奇麗好きのインド人も居るものだなぁ。
いや、あれはゲストハウスで我々が使うシーツではないのか。
シーツは一週間に2回の交換になっているのだが、この一週間は全く来ない。
相原参事が世話役のビスワナタン副課長に尋ねた所、こんな田舎で輸送費ばかりかかって割に合わないと、業者に逃げられたのだとか。
そこで、ビスワナタン副課長は考えたか、このキャンパス内でやれば輸送費がかからないと。
結果はピンポ〜ン。
次の日の月曜日にはアイロンの掛かったシーツの交換があったのでした。
やはり此処は陸の孤島なのです。
周りをぐるりと自転車で回って、裏側からゲストハウスの前に出た。
メイン工場は未だ柱が建ち始めたばかりで人夫が動めいているだけだし、施設としても平屋のトレーニングセンター位のもので、結局このキャンパスで一番立派な建物は、このゲストハウスだと判った。
あぁ、我々は幸せなんだなぁ。
前庭には花や生け垣が立派に植えられているではないか。
ある程度の住宅は出来ていても、庭の手入れまでされている所なんて1個所もない。
門番だってきちんと夜通しで警備してくれてる。

もうインドへ来て滞在予定の一ケ月間になろうとしている。
日本で何がどうなっているか、気にはなるが、テレビは勿論写らない。
吉田部長が帰国の折りに貸してくれた短波ラジオだけが情報源だ。
早起きすると5時半からの11.69メガヘルツが良く入る。
朝食後の7時半からはインドネシアで中継する11.86メガヘルツ、昼食後の13時半からもインドネシア中継の11.74メガヘルツ、仕事が早く終わって18時半からはスリランカ中継の11.88メガヘルツ、そして夕食後も6.035メガヘルツと沢山ある周波数の中から結構聞き取れる程度に聞こえるよ。
だから、大相撲秋場所で11勝4敗同士の決定戦で武蔵丸が優勝したとか、清原が巨人に入った等のニュースはこちらでも入っていた。
10人以上もの同僚と一緒に毎日8時前後まで職場に居ると、ホームシックになる暇もないが、役目はそれなりに終わりつつあり、帰国の話がちらちらすると郷愁が湧き出してくる。
暗くなって屋上に出てみた。
何時も天気が良くて殆ど雲が出ないから、星が全天降り注ぐかと思いきや、沢山の黄色のナトリウム街灯に負けて星達は寂しい光を放っている。
あーっ、オリオンだ。
もう冬なんだなぁ。
地図からはこっちのロータリーが北になる。
北極星は探せない。
来た道のゲート方向が東だ。
日本でもオリオンが美しくなる季節だ。

(1999年12月)

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