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ニューデリー&デリー観光
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≪ニューデリーへ≫
インドでの仕事を一通り終えて、カルカッタへ向った特急シャタブディ号 
夕食の時間帯で、新聞、飲み物、インド料理一式が付いた。 インドカリーが3種にパパド、ラッシー、サラダ、ミネラルウオーターなど 
同じ国営でもエアーインディアよりずっと食べやすいものだった。 翌日のカルカッタ発ニューデリー行き民間航空便の機内食 
此方はノンベジタリアン用、ビジネスクラスだが国営会社とは偉く違う。 此方は同行のヤショダール君がオーダーしたベジタリアン食 ニューデリーへの着陸間近の工業団地予定地か。それとも住宅団地か。 住宅地らしいが、建っている部分と空き地の部分との違いがはっきりしている。 
庭など作らず、細分化された区画に目一杯に建ててるのだろう。
≪ニューデリー観光≫
タージマハル・ホテルからの展望 
朝早くで靄だっているが、靄の正体は廃棄ガスなのだと言う。 先ずはラージパットと言うインドの門から岡の上の元の英国総督府へ通じる大通りにでた。 
毎年1月26日の建国記念日に大パレードが繰り広げられる所である。 今は大統領官邸(ラーシュトラパテイ・バワン)になっている元の英国総督府 日本の霞ヶ関同様この辺りは官庁街となっているが、広い所にゆったり配置が違う所。 インド独立前のこと 
 ガンジーは反英闘争として 
 当時禁止されていた塩を自分で作ろうと 
 グジャラートからボンベイノン海岸まで歩いた。 ガンジーに多くの同士が続き、「塩の行進」となった。 ネルーさんが首相官邸として使っていた所、 
今はネルーさんに関する博物館として一般公開されている。 中庭に灯り続ける 
 ネルーさん、ガンジーさんらの永遠の灯火 ネール首相の執務室 
デスクの前にメンバーが並んで座るのがインド式のミーティング・スタイル 数多くの記念品類の展示がされている。 ラージパット(大通り)の一方の端にあるIndia gate(インドの門) 1911年にカルカッタから遷都された後、第1次大戦の戦勝記念塔として建てられた。 
高さは42メートルもある。 此れは戦没者慰霊塔となっており、近衛兵が立っていて慰霊の火を燃やし続けている。 従ってその火には第二次大戦、3回のインドーパキスタン戦争、  
1回の中国との戦争、1999年のカシュミールのカーギルでの戦死者の慰霊も含まれている。 背景に写っているのは、中に何も入っていないキャノピー 国会議事堂の建物 
インド50ルピー紙幣の裏側に描かれている通り、国旗がたなびいていた。 建国の父マハトマ・ガンジーを茶昆(ダビ)に付したラージ・ガート 台座は黒大理石で出来ていて、彼の最後の言葉「へー ラーム」 
広大な芝生の中で訪れる人が絶えず、 
 花も絶えない。 デリー一帯にはムガール帝国前後のフォート(城)が数多くある。 
此処もその一つと思われるが、中は公開されていない。 ムガール帝国の第2帝フマユーンは 
1530年にアーグラで病死したバーブルの後を継いで皇帝となった。 しかしアフガン族のシェールハンに1539年、1540年と敗れ、 
フマユーンはイランに亡命して、インドは一時、スール朝となった。 しかしフマユーンは15年後の1555年、 
 デリーを奪還した。 いよいよフマユーンの時代かと思われたのも束の間 
 翌年城内の階段で転落死してしまった。 
 そして息子のアクバルが14歳で第3帝となる。 ムガール帝国の礎となったフマユーン皇帝のツーム(墓) 
フマユーン皇帝の未亡人、ハージ・ベーガム(Haji Begum)によって建てられた。 庭園の中の廟(お墓の上の建物)という形式を完成した最初の建物 
建物の上の方はアーグラのタージマハールに似ていて影響を与えた 近づくと壁面の模様が次第にはっきり見えて来る。 
繊細な壁面模様のタージマハルに対して、その点でも影響を与えたであろう。 大きさは一辺が100メートル位の正方形 
世界遺産にも登録されている巨大な建物である。 広ーい敷地の中でそびえる礼拝堂 
Lotus Temple or Bahai Temple 八つの新興宗教が一つになったもので、 
全体が正八等分を基調として出来ている。 裸足になって入口まで来たが、丁度礼拝の時刻とのことで、 
中に入ったら1時間は出られないと言うので入らず仕舞い 信者の列か、修学旅行か インドでも彼方此方と制服の着用が進んでいる。
≪オールドデリー観光≫
デリーの旧市街にある 
クトブ地区の歴史的建造物に対する世界遺産の表示 クトブ・ミーナール(ミーナールとはペルシャ語で塔の事、戦勝記念塔です。) クトブミナールに隣接して建てられてたクワットル・イスラーム寺院 クトブウッテインの次にデリーの太守に任ぜられたアラウッデインがクワットル・イスラム寺院を増築し 
クトブミナールの隣に更に高い自分の塔を建てようとしたが、1316年に病死しその計画は未完成に終った。 此処はクワットルイスラーム寺院の庭ですが、この寺院の柱の上部(枡形)には破壊したヒンドウ寺院の廃材(石材)を使っています。
 つまり石像の鼻を欠いてそれを利用しているとのこと。イスラムでは他宗教の顔の部分を欠いてしまえば只の石ころ同様で何に使おうと構わないのだとか。 Birla Temple
≪レッドフォート観光≫
Red FORTは、1638年から10年を費やして建てられた。 
建てたのはムガール帝国全盛の第5帝、シャージャハーン皇帝 城に入って直ぐの所は土産物店になっており、 
如何にも観光地レッドフォートである。 この日は金曜日、イスラムの安息日でイスラムの観光施設の入場は無料となる。 
此処レッドフォートにて音と光りの祭典が行われるというのか レッドフォートの建設は、シャージャハーン皇帝の妃、ムムターズ・マハルの死にも関係があるのだろうか、 
レッドフォートが完成するとシャージャハーンは都をアーグラからデリーに移した。 Yamuna河に面して建てられたこの城には 
広い敷地に多くの政の施設を配置させている。 タージマハルと同年代に建てられたレッドフォートは 
材料こそ違え壁面に描かれた多くの模様に共通性がある。 アーグラ城にもあった接見の場所、 
見事なシンメトリーになっている。 接見の場所の中央に設置された王座 レッドフォートは名前の通り、多くは赤砂岩で作られているが、 
一部はタージ・マハル同様に大理石で作られていた。 レッドフォート敷地内にある宿泊施設 
今でも大学教授の住宅などに使われているとか。