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アーグラ観光
画像にマウスを当てて少しすると説明文が出ます。
≪アーグラへの道≫
朝靄の中を6時半、ニューデリーを出た。 
向うは南南東へ約200キロのアーグラ市。小1時間で夜明けとなった。 本日の案内人はEAPLのヤショダール君(32歳) 
彼は後部座席で率先してシートベルトを着用した。 高速道路風だが左側に歩行者・自転車・牛車など通り、 
中央分離帯の此方側を逆送するバイクやトラックも居て危険この上なく、シートベルトは必需品。 中間点より少しアーグラ寄り左側のドライブイン 
レストランに土産物に、正しく観光客相手の店だが、やや高値設定のようだった。 アーグラ市に入って直ぐの新設モスクか 詳しくはわかりません。 タージマハールが廃棄ガスで汚れるからと2キロ手前から 
リキシャか電動車か、徒歩か。此れで片道10ルピー
≪タージマハル≫
叔父さん、必死でリキシャを漕いで 
やっと着いたタージマハール正門前 インド人の入場料は5ルピーぽっきり 
それなのに外人に対しては観光税としての1日500ルピーは暴利だ 正門から陵へ続く道 
両サイドが回廊状になっている 日光東照宮ならば 
陽明門に相当する インド人はこのゲート前から大きく右へ回りこみ、身体検査をさせられて横門から入る。
 外人観光客だけ此の門を通って、暗い中から現れるタージマハール陵を拝めることになる。 タージ・マハルはムガール帝国の第5皇帝 
シャージャハーンの妃、ムムターズマハルの死を悼み 
1632年から何と23年をかけて作られた。 世の中、皇帝や王の墓は多いが、妃の墓で此れ程の例はない。 紺碧の空と、白い大理石との対比が実に美しい。 近づくと単なる大理石で作られたのではなく、 
 壁一面に宝石・輝石が埋め込まれているのが判る。 
 所々にキラリと輝くはダイヤモンドなのだとか。 下側アーチの直ぐ近くに光って見えるのがダイヤモンドだと 
10ルピーで雇った案内人が教えてくれた。 陵の中に入ると壁面一杯の装飾に見とれてしまう。 
先ずは正面上を見上げた所 右側から入ると直ぐに下に下りるようになっている。 
この地下にムムターズマハルの棺が収められている。 
昔は地下も見せてくれたらしいが、今は閉鎖されてしまった。 入った所の壁面模様 入口を入った所の大理石リレーフ 正面から更に中に入れるが、中は真っ暗で撮影(フラッシュ)禁止 
何があるか判らず、カメラを胸に抱えたままで隠し撮りした。 この写真も中の真っ暗闇の中で撮った隠し撮り写真で、大理石衝立の隅々まで美しく彫られている。 陵の後側に回りこんで見ると、緩やかな流れの河べりに建てられているのが判る。 
Yamuna河で、500キロほど下ってベナレスの近くでガンジス河に流れ込む。 上流側に目を遣ると赤い大きなお城が見える。 
ムガール帝国の第2帝アクバルが建てたアーグラ城で、タージマハルとの関係で悲しいドラマがあった。 良いお天気ですっかり焼けてしまった。
さしずめインド人とネパール人の二人
と言った所か。 タージマハル陵から門の方面を見た所。 
良く整備と手入れがされている。 10ルピーで雇ったガイドが撮って呉れた写真 
面白いけれど、昔昔何処かで見たかなぁ 
少し斜めになっている所と、床が写ってないのがそれらしいが、 
摘んで持ちあがるものでもないから、やはり可笑しい。 300年前にタージマハルを作った末裔が今もこうして細工をしている。 大きい方が3500ルピーで、小さい方が1000ルピー 
合わせて12000円位を100ドルで交渉している所 
ニューデリーの土産店と比べると2〜3割は安い 入口近くの水牛の群れ 
当然落し物も多いから、歩く時には下を良く見て要注意
≪アーグラ・フォート(アーグラ城)≫
皇居だと二重橋に当るアーグラ・フォート正門の 
AmarSinghGate前の橋から左側城壁を見たところ 同じくAmarSinghGate前の橋から右側城壁を見たところ 
使っている材料こそ違え、城の構えは日本のと良く似ている。 ゲート前の右側にある監視台 
当時既に銃が使われており、縦長の切れ目が壁面模様となっている。 アーグラ城はユネスコが指定する世界遺産となっている。 
 此れはその指定銅盤 
 インド人観光客が皆で触れるものだから、 
 ヒンズー語の部分は擦れてしまってる。 AmarSinghGateを入って直ぐのところ。 更に入ると広い中庭になっている。 入口上にある△と▽を組み合わせたマークはムガール王朝の印。 
ムガールはモンゴルの意味で、母方の祖先にジンガスカンを持つバーブルが1511年にインド皇帝を名乗って始まった。 バーブルは故国を追われて西インドの北、カブールで勢力を張っていた。 
其処で衰退のデリー王朝を助けながら非凡な軍事的才腕を発揮し、遂にインドの内紛に乗じて皇帝宣言に至った。 壁面模様に見られる卍はビンズー教ではカワスティカ(SWASTIKA)と言って目出度い印 
ヒットラーは此れを左右逆として盗用しナチスのマークとした。 
ムガールはモスレム(イスラム教徒)だがアクバルはヒンズーとの融和政策からこの目出度い印を好んで使ったとされる。 裏側から見たタージマハルも美しさは変わらない。 
第5帝シャージャハンの息子、アウラングゼーブは1658年、父親を此処アーグラ城に幽閉して第6帝となった。 
シャージャハンはこの窓から自分が作ったタージマハルを毎日眺め、亡き愛妻のムムターズマハルを思い出して泣き暮れたと言う。 
そしてシャージャハンは幽閉されて8年後の1666年に失意の内に亡くなり、妃の隣に葬られた。 アーグラ城を建設した第3帝アクバルは14歳で即位して1605年まで49年間皇帝を務めた。 
その間にインド南部を除く全インドを支配し、ムガール帝国の実質的建設者と言える。 アーグラ城はタージマハルの70年前に建てられているが 奥の皇帝が私的に使用していた部分の大理石装飾は素晴らしい。 此処はやはり私的に使っていた部分で 
高価な大理石をふんだんに使い、一部は黒大理石も使っている。 Samman Burjと言う塔の部分にある大理石の泉(壁に水を溜めて落差で泉を作っていた) 
シャージャハン皇帝は此の場をこの上なく好んだそうな。 デイーワーネ・アームと言う接見の場所 
正面入口を入って左側に緩い坂を登った所にある。 建物の中の奥に一段高くなった王座がある。 
位の高い者は一段上がった所、身分の低い者は下で謁見した。 見事なシンメトリーな柱の配置は此処だけでなく 
彼方此方の遺跡で見られた。 この写真に見るように、アーグラ城は赤砂岩と大理石とを使って、壮大な規模で作られている。 城の表からの顔は赤砂岩の頑固なもので、 
内側の顔は大理石も使い柔らかな豪華なものとなっている。 城の中、世界遺産の表示と共に記されていたものだが、 
英国人のジョン・ストラチェイ卿のお陰でタージマハルやこの地域の歴史的な記念物が救われ保存されたので
それを忘れないように友人である総督のリットン卿の命令でこれを1880年に設置したと言うもの。
≪ファテブル・シークリ(モスク)≫
此処はアーグラ城から車で30分ほど離れた所 
ファテブル・シークリと言う所です。 ムガール(モンゴルの意味)を実質的にインド帝国としたアクバル(第3皇帝)が、 
1571年(即位15年後29歳)に建設着手して数年後に完成 
アクバルは都をアーグラから此処ファテブル・シークリに遷都した。 
今ここに見るように綺麗な花が一杯咲いているが、水不足で十数年後には此処を放棄してしまい、パキスタンのラホールに遷都してしまった。 アーグラ城の後に作られた物で規模も相当だが、 
アーグラ城の後で見ただけにスケールも細工も一回り小さいものと感じた。 この広場は大変有名な場所となっている。 
左の台上に皇帝が鎮座し、広場でのゲームを楽しんだとのこと。 この建物はパンチ・マハルと言って、5階部分に皇帝が座ってゲームを観戦していた。

そのゲームとは、広場に縦横の桝目を作り、美女を両側から向わせて双六式にゲームをさせたと言うもの。

其れが中国を経由して将棋となって日本に伝わり、欧州へチェスとなって伝わったのだとか。 ▽と△を組み合わせたムガール帝国の印が特徴的な出入り口 中央の柱が特徴的なホールだが、この建物はイバーダット・カーナと言って、2階部分は回廊になっていて皇帝や重臣が会議をした所とのこと。その他の武将は上には上がれなかった。 アーグラ城の近くにはジャムナ河が流れて城の周囲にお堀があったが此処には両方ともない。 
それどころか城の外郭に雨水を溜めておいたと思えるプール跡も見られる。 
そんな貴重な水を使ってこの場で水浴び(沐浴)をしたようだ。 タージマハルやアーグラ城ほどではないが観光客も結構来ている。 
日本人観光客の姿も数人ながら見られたのだった。
≪シカンドラ・ツーム & おまけ≫
此処はアーグラからニューデリー側に戻って直ぐの所、シカンドラと言う場所にある、 
アクバル帝(ムガール帝国の第3皇帝)の墓(Tomb)の表門(Gateway)になる。 作られた年代は17世紀の初めで、タージマハル(第5帝の妃のツーム)よりは30年位前、ニューデリーにある第2皇帝のフマユーン・ツームより50年後位の建物である。 建物本体はフマユーン・ツームと同じ焦げ茶色の赤砂岩に、より細かな模様を加えたものとなっており、 
しかも四隅の大理石の塔をタージマハルに継承させた興味深い建物だが、 
ヤショダール君の妻の従弟の邸宅に寄った関係で遅くなり、ゲート前を車で一回りしただけだったのは惜しかった。 ヤショダール君の奥(ウジュワラ)さんの従弟のご夫婦の邸宅 
インドのハイクラスの家庭を初めて見ることが出来た。 お二人共に、医学関係の大学で教鞭を取っているとの事 
家具調度品の数は少ないが、一つ一つは値の張るものばかりと見えた。 お借りしたトイレを見てビックリ、そして納得 
4年前にヤショダール君の会社で雇った技術者が日本に来た時、彼等のゲストハウスとしていた所の洋式トイレの便座が酷く汚されたと、当時の管理人が苦情を言って来たことがあった。 
インド人が普通に使うトイレは日本式トイレで金隠しが無いものと同じもの。従って洋式トイレでは息む事が出来なくて便座に跨いだかと、当時は思っていたもの。 
所が北インドの方では左の写真の様に和洋折衷とも言える形だったのだ。 
日本のゲストハウスでの謎が北インドに来て解けた次第。便座も付いていて、どちらでも使える様になっているのが面白い。